映画:チョコレートドーナツ

表現ツールが絞られると、何かを「隠す」ことができる。
たとえば文章だけが表現ツールの小説は、最後になって、語り手の性別が明らかになるとか(女だと思って読んでいたら男だったとか)、年齢が明らかになるとか(十代の世界を描いていたと思っていたら七十代の世界の話だったとか)、語り手が犯人だったとか、「隠されていたものが明かされた瞬間」が、作品の魅力の核になってしまうこともある。
映画の表現ツールは、映像。
ビジュアル、動き、音声とツールの種類がぐっと増え、その気になれば、セリフやBGMやCGやコスチュームや美術や、いくらでも装飾が増やせる。
そんな、情報がてんこもりにできる表現媒体でありながらも、つくりようによって、映画にはいくらでも「隠せるもの」がある、そのひとつは。
「情」だ。
「チョコレートドーナツ」も、そう。
「情」をスクリーン上で表現しようと思えば、いくらでも方法はある。
登場人物にセリフで長々語らせたっていいし、劇情的なBGMで盛り上げたっていいし、ナレーション入れてもいいし。
そうしないと納得しない観客もいる。
何でこの人はこの人が好きだったの?好きに至る経緯がぜんぜん説明されていない!と怒るとか。
いや、情って、ヒューマンな意味での広い情愛って、目でも耳でもとらえることのできない、説明のできない姿をしているのが自然なありようではないかな。
理由がある愛と、無償の愛とは、相性が悪い気がする。
「チョコレートドーナツ」のゲイの主人公は、恋人とともに、自宅アパートの隣室の住人の、ダウン症の少年の養育者になろうとする。
彼らがなぜ、少年にそれほどの情を持ったのか、その動機も理由も、はっきりとは示されない。
でも、気がつく。
ヤク中のシングルマザーの母に部屋を追い出され、呼び戻されるまで廊下にたたずむ少年の孤独に、主人公は自分の姿を見たのではないかと。
養育権請求裁判に出廷した、主人公の恋人(弁護士)が、少年のことを、「ダウン症で肥満したこどもなど、誰も欲しがる人はいない」と説明したとき、主人公とその恋人=ゲイのカップルもまた、1970年代のアメリカ社会において「誰も欲しがる人がいない存在」に等しい疎外者であることを。
少年を救済することは、傷つけられつづけている自己の救済でもあることを。
ええっと、そうなると、無償の愛ではなく自己愛になってしまうが。
ただ最近思う。
他者に向かい合ったとき、他者の中に、自分の姿を見出せたほうが、他者を理解しやすいと。
自分の姿とは、現在進行形の姿とは限らず、過去形を含む。
この人が怒っているのは、解決を求めているわけじゃなくて、ただ自分を大切に扱ってほしいだけなんだよなあ、って思ったり、プライドが高い人ほど、傷つきやすいんだよなあ、って思ったり。
だから、主人公と恋人は、少年の心の理解者であり共鳴者であったはず。
「情」は、本来、見えないもの。
本来に近い姿で、情を描いた映画である。いい。
ちなみに、予備知識ほぼゼロで見に行った私は、主人公のアラン・カミングが現れたとたん、ああっ、イーライ!と驚いた。
BSで放映中の「グッド・ワイフ4」の弁護士イーライを演じているので・・・。
「グッド・ワイフ4」は、ヒロイン、アリシアと周囲の女弁護士たちの、スーツがメインの服装に、それぞれルールを感じるのを楽しませてもらっている。その話はまたいずれ。