自尊心ナデナデ

湿気が多く、気圧が低いシーズン。
人間は元気がなくなるが、あじさいやどくだみは元気いっぱいである。
梅雨空の下、わ〜いわ〜いって感じで揺れているてんこもりのあじさいの群れや、ここにいるよ〜可憐な白い十字花、見つけやすい目印でしょ〜私の葉を摘んで、お茶にして飲んでおきなさい〜解毒作用で食べ物が痛む梅雨を乗り切って〜って感じの、葉っぱわさわさのどくだみの花。
人間がヘコむ季節には、そのシーズンに主役に躍り出る花の姿から元気をもらえる。
だから人間は花を育てたり、切り花を室内に飾ったりするのかなあ。
二週間前の、梅雨にしては湿気が少なめで晴れた休日。
この天候こそ夏着物のとき!と奮い立ち、初めての綿麻着物に袖を通す。
白地に薄いピンクの大格子の片貝綿麻で、華やかさからは遠いシンプルな着物。
夏着物は透けることが多いので、透け防止と足の汗のベタつき緩和に役立つとされる、着物用ステテコも初めて履いてみる。
一部水色の模様が入った黒の半巾帯を、初めての結び方、吉弥結びにしてみて、薄紫の二部紐を通した水色のガラス製帯留も初めてつけてみる。
春に、帯だけで吉弥結びにしたら、玄関を出て百M歩いたところで、いきなりするするっと帯結び部分が解けて、走って逃げ戻ったことがあり、この結び方にするのなら、帯締め的な紐で解けないよう防止をすることが必須、と痛感したのだ。
こんどは紐の助けがあるから、きっときっと大丈夫と、自分を励ましながらも、着物も含めて「初めて要素」がいっぱいのこの日、出かけるのなら、何かトラブルが起こったときタクシーで逃げ帰れる程度の近い場所にしておこうと思う。
さて、どこへ出かけるか、と思案して。
そうだ、菖蒲の花を見に行こう。
たしか今が、明治神宮の庭にある菖蒲池のシーズンだ、と思いつく。
何千本と咲いているはずの菖蒲の花から、元気をもらおう。
明治神宮の庭園は、入園料500円という垣根のせいか、以前は人が少なくて安らげたけれど、庭内の清正井がスピリチュアル的に有名になってしまってからは、入園客がぐんと増えたと聞く。
でも私の目的は清正井じゃなくて菖蒲だから何とかなるでしょ。
というわけで、出かけた。
......
その結果。
菖蒲の花よりも、別のものから元気をもらえた。
どうか帯がゆるみませんように〜と明治神宮内をおっかなびっくり歩いていると。
「シャシン、イッショニ、イイデスカ?」と、二回、声をかけられたのである。
一回目はアジア系のグループ(たぶん韓国の人かなあ)、二回目はアラブ系のファミリーから。
二度ともわざわざ日本語で話しかけてくれたのが面白いが、着物で歩いている人に英語で話しかけても無駄だと思ったのかも。
気がつけば、明治神宮内は海外ツーリストの姿が、けっこうな数。
欧米系のツーリストからは、「イッショニ」はなく、でも私はジャパンな背景の一部として都合がよかったらしく、離れた距離から何度かシャッターを切られる。
通りすがりの同国人からはさんざん容姿を罵倒されてきたけど(ある意味、存在を罵倒されるにも等しい)、通りすがりの異国人から元気づけられた感じ。
私じゃなく着物のおかげなのは明らかだし、「観光素材」として評価されたに過ぎないとは思う。
でも、シャシンに撮るって、視覚的に評価をされたということだから、ふだん視覚面で低評価な自分には、とても元気づけられたのだった。
そう、女としての自尊心をナデナデしてもらった感じ。
やっかいだな。
人間としての自尊心を元気づけるには、性格や思考などの内面や、その人の創造物を含め、さまざまな方面で評価を得られればいいけど。
「女としての」とつくと、視覚的、聴覚的、触覚的なものにフォーカスが絞られていって、身体そのものに派生してくる。
身体に派生する何かが評価されるシチュエーションをつくらないと、女としての自尊心は元気づけられないってことかも。
帰宅後、洗濯機の中でぐるぐるまわる着物(綿麻だから洗っちゃっていいの)に感謝しながら、そう思ったのだった。