自分のツールを間違えないで

先週、三菱一号館美術館で開催中の「ヴァロットン展」を見て、思った。
油絵より版画のほうが、センスがいいなあ。
油絵は、古典的でおとなしい感じ(失礼な言い方だがもっさりした感じ)なのに、版画は、垢抜けて、エッジィ。
ポスターやチケットになっている素敵な作品は油絵だけれど、油絵らしくないどちらかといえば多色版画チックな様相である。
ヴァロットンの才能と技術に真にふさわしい器は、油絵ではなく版画だったと思う。
ひとりの作家の年代別の作品がほぼ一望できる、個展を見に行くと、こういうことがよくある。
人にはそれぞれ、その人にふさわしい表現方法、表現ツールがあると感じることが。
生存している間に名声を確立している芸術家なのに、なぜか、あ、今さらそのツールで作品をつくらなくっても・・・というシチュエーションに出会ったことが何度も。
アンリ・カルティエ・ブレッソンの、写真ではなく、油絵。
アルフォンス・ミュシャの、版画ではなく、油絵。
ミレーの、顔が明確な人物が主題の絵。つまりミレーにとって、人の顔自体は苦手なモチーフだった気がする。(超名作「落穂拾い」は顔が見えない人物が主題だし。)
ずっと以前に「誰でもピカソ」で、ケーキをエロティックに描いた油絵作品が特徴の芸術家が、あるとき同じモチーフを立体作品でつくってきたとたんに、エロ度が急落、作品としての魅力も面白さも急落していたことがあったっけ。
名をはせた芸術家でも、表現ツールを間違えると、本来のツールであれだけ輝いていた魅力やセンスが急落する。
面白いことに、自分に合うツールの場合、作家にとっては、激しい努力をしなくても、素晴らしい作品ができちゃうものらしい。
それが才能なんだろうな。
合わないツールだと、入れ込む熱意や努力や時間などのコストを傾けたわりに、合うツールほどのリターン(作品の出来栄え)がない。
自分を表現するツールのジャンルは、多岐に及ぶと思う。
作るもの、書くもの、着るもの、話すもの、するもの。
自分のツールを間違えないで。
ときどきその言葉が自分に降ってくる個展鑑賞。「ヴァロットン展」もそのひとつだった。