海外旅行のススメ

東浩紀の著書「弱いつながり 検索ワードを探す旅」を読む。
「ネットは階級を固定する道具です。」
本書は、この一文で始まる。
「ネットは自己肯定を強化してくれるメディアである。人々の所属を固定化し、ネットに依存していると自分の似姿ばかりに囲まれる。世界は、検索ワードと同じ数だけ存在するのだから、グーグルの予測によって与えられる検索ワードを意図的に裏切る、新しい検索ワードを手にいれる必要がある」と。
そのために著者が提示するのは、強い絆(ネット)ではなく、弱い絆(リアル)をとりいれることだ。
具体的な方法のひとつは、海外へ旅すること。
自分探しの旅ではない。「自分」ではなく「検索ワード」を拡げるための旅だ。
何も、海外へ留学やビジネスをしにいけというわけではなく「観光客」でよい。
・・・これは、若者にとって、とてもとりいれやすい手法だと思う。
旅行費用は必要だけど、異なる文化圏にリアルに触れる海外旅行はたしかに、自分の中の「表象できないもの」を揺り動かすから。
実は私、飛行機に乗ることができない。
40歳のとき、肺気胸で胸腔鏡手術を受け、手術したのは右肺だったが、MRIによると左肺も肺気胸発症のリスクが高い状態と告げられた。
発症を促す要因のひとつには「気圧の変化」があり、それに該当するのは飛行機とダイビング。
気圧って、標高1000メートルごとに1気圧下がるんだけど、飛行機の機内は、調整された状態でも、標高2000メートルと同じ気圧なんだそうだ。
私は箱根のロープウェイに乗ったとき、道中、標高1000メートルを超える地点が1分間ほどあるのだが、その地点にきた瞬間、気圧が変わったのがはっきりわかったくらい、胸をがっとつかまれた感覚に襲われ、口がきけなくなったくらいなので、標高2000メートル相当の飛行機なんてとんでもな〜い、と以後、飛行機に乗らないことを決意した。(ロープウェイでは標高が1000メートル以下に下がったら、嘘のように胸の状態は戻った。1分だけだからいいが、飛行機のように何時間ものあいだ、肺が耐えられるとはとても思えない)
幸い、ダイビングは二十代のときに突如ライセンスをとってみようと思い立ち、初級ライセンスはとったので、もう経験済だったし、発症したのが40歳だったので、海外旅行もそれまでに7カ国、経験済だった。
海外旅行は、ひとり旅でも、団体ツアーの参加でも、それぞれ得るものはあると思う。
ひとり旅だったロンドンは、唯一、二回行った国で、とにかくミュージカルが見たかったから1回目のときは丸5日間に8本舞台を鑑賞(1日にマチネとソワレ、両方入れたの)。それはそれで大いに幸せだったが、自分の英語の発音の通じなさにショックを受けて、こんなに通じないんじゃ不便でしょうがないと、帰国後、発音専門のスクールに半年、通った。正しい口と舌の形を会得するレッスン内容で、一ヶ月たっても、アルファベットの発音が終わらなかった。アルファベットの発音を会得したら、一文字単位の発音ではなく数文字単位の発音の会得へ。1時間のプライベートレッスンは、英文を見ている時間はほぼ皆無で、声を出している時間が大部分だった。ぜんぜん自慢にならないが、「R」の発音のときの正しい舌のかたちの立体を粘土で作れって言われたら私、作れるもん。
それから三年後、再びロンドンに旅行したら、美術館のカフェで相席になったエジンバラからきたおばあちゃんに、英文法ボロボロの状態で会話したのに「Your sound is perfect」と言われて仰天。他にも、当時日本にまだ進出していなかったサンタ・マリア・ノヴェッラのロンドン店舗に買い物に行き、女店主との会話で「ハンニバル・レクタークラリスにここの品物をプレゼントしてたから来た」とか言ったりしたら喜ばれ、日本人の英語ってたいてい理解できないけれどI can understand your English 、と言われてまたも仰天した。観光客レベルの立場なら、英文法がボロボロでも、発音の良さのほうが現地の人には効力が高いんだ、と思った。
イタリアには団体ツアーで友人と参加。毎朝、違う都市で目覚めるという恐ろしいハードスケジュールで、ミラノ、ヴェネチアヴェローナアッシジ、ピサ、フィレンツェ、ローマとかけ巡っていったが、風景の、都市の、建造物の、芸術品の、遺跡の、人間の、巨大な美に圧倒される旅で、こんな美の塊に日常的に囲まれていたら、逆に感覚が鈍ってしまうのではないかと思った。
団体ツアーで便利なのは、予約しなければ不可能な移動手段や観光ポイントを手配しておいてくれること。
例えばヴェニスでゴンドラに乗りたい!と思ったら、人気観光アイテムなので、前もって予約しておかないと難しいかも。
そのイタリア団体旅行の参加者は、9割が若い女性だったので、女の子がてんこ盛りになった何艘ものゴンドラが次々に水上にどんぶらこと漕ぎ出していくと、岸からイタリア男の口笛と声援が飛ぶ、ということになった。
ちなみに、ヴェニスに入るには当然、海から接続するのだが、初めてヴェニスを目にしたのは夕刻で、岸に向かってしずしず水上をすべっていく大型フェリーから、いっせいに美しくライトアップしたドゥカーレ宮殿とそのいったいの建物がきらめく岸辺の景観が見え、ただでさえ美しいのに、水面にも、きらめく景観が水鏡に映しだされてダブルになり、というものすごい美観が、近づくにつれしだいに大きくなっていくのをフェリーから見つめつづけた私と友人は、そのあまりの美しさを前に「信じられない...」と口にしていた。巨大な美に圧倒されて「信じられない」という言葉を発声するなんてことは、人生で初めてだったかもしれない。でもイタリア旅ではそのシチュエーションが何度もあったのが凄かった。帰国後、ヴェニスについて書かれた塩野七生の著書で、通常、海岸は、敵が襲来する入り口でもあるから、海岸を持つたいていの都市は、岸辺に高い防壁を築く。(コンスタンティノープルなど)しかし、ヴェニスは、接岸するまでにいくつもの座礁ポイントがあるので、敵が攻めてこようものなら、座礁ポイントを示す目印になる杭を抜いてしまえばいい。つまりヴェニスは周囲の海がすでに防壁の役目を果たしていた。だから防壁を築く必要がなく、海に向かっていきなり、あのものすごい美観がオープンになっている、と知った。
というように、他の国でも、それぞれ予想外のものを見たりコトに遭遇したりして、帰国後まで持ち帰ることができる記憶となった。
それは、東浩紀が指摘しているように、自分が変わったわけではなく、自分の中の情報のジャンル、視点が拡がったような、自分の「検索ワード」が拡がった感じである。
私のように乏しい海外旅行経験数でも、このくらいの効果はあったのだ。
ちなみに、ロンドン(1回目)とイタリア旅行は、二十代の社会人のときの経験。
体力と、海外旅行費用が捻出できる二十代の社会人には、海外旅行がおすすめである。
自分や、周囲の例を見ると、人は、三十五歳を過ぎるとその人の身体の弱い部分が表出してくるような気がする。今、飛行機に乗れない身体状態の私は、そうなる前に行っておいて本当に良かった、と思う。
修行でも留学でもボランティアでもビジネスでもなく、観光で行く、というのは、手が届きやすい手段のはずだ。ただ、海外旅行先で、自分の模様を逐一ネットにアップする作業は、しないほうがいい。
以下、東浩紀の指摘を引用。
「身体を一定時間非日常のなかに「拘束」すること、そして新しい欲望が芽生えるのをゆっくりと待つこと。これこそが旅の目的であり、別に目的地にある「情報」はなんでもいい。・・・旅先で新しい情報に出会う必要はありません。出会うべきは新しい欲望なのです。...同じ世界のなかで、同じ言葉ばかり検索していて、そしてそれなりに幸せでも、ぼくたちは絶対に老いる。体力がなくなる。それに抵抗することができるのは弱い絆との出会いだけなのです。」
東浩紀は、ネットを否定しているわけでもなく、ネット上の情報をより深く探索するために、リアルが必要、というような、ネット(強い絆)とリアル(弱い絆)の双輪の状態を推奨している。
その点でも、もはやネットから離れることはできない状態に置かれているといっていい若者には、とりいれやすい方法だと思う。
「検索結果一覧を見るぼくたちの視線は、観光客の視線に似ている」
のだから。