横浜トリエンナーレの階段に妄想

華氏451」がテーマの、横浜トリエンナーレ2014の展示を見に、横浜美術館へ。
......。
横トリを見るのは私、初めてなんだけれど。自分の心や集中力を、鑑賞する姿勢に持っていくのに苦労して、妙に冷静な感想しか持てなかった。
なぜだろう?
......。
もしかして、会場内の、妙な分断感のせいかな。
横浜美術館は、外観も、入ったときの館内の印象も素敵なんだけど。
館内の展示は、統一テーマでキュレーションされているはずなのに、それらが分断されてしまう感覚がある。これは、展示にとって、非常にマイナスな効果である。
なぜなんだろう?
・・・・・・。
もしかして、大階段のせいかな。
1Fのほとんどを占める、双方に伸びた大階段。
この階段スペースのせいで、展示物の配置が、かなり難しくなるんじゃないかな、ひょっとして。この大階段自体は素敵なんだけれど、えーと、階段を見に来たわけじゃないから、階段を主役にされてもなあ。
思いおこせば、他にもあるぞ、大階段。そして、その大階段が妙に無駄なスペース感があって、効果的ではないようすの場所。
JR京都駅構内の大エスカレーターとか、表参道ヒルズとか。
どちらも、中心に階段(エスカレーター)スペースがどんととられているが、主役にいるべきじゃないモノが主役になっている感がある。
大階段を使いこなしているのは、「戦艦ポチョムキン」とか、蜷川幸雄の舞台とか、萩尾望都の作品に頻出する禍々しさの象徴の階段シーンの数々とか、宝塚...。
...全部、リアルな場ではない。
大階段が似合うのは、演劇とか漫画とか、ファンタジーな場なのかも。大階段そのものが、劇的効果をもたらす大道具にふさわしいのかも。
いや、あったぞ、リアルな場での、劇的効果を持つ大階段。
モンマルトルとか、ローマの各「丘」とか、京都の知恩院とか。
これらリアルな場の大階段は、大階段を行き来したり、座り込んでいる人たちを含めて、階段そのものが、有名観光ポイントの、演出素材になっている気がする。
階段は、使われてこそ、劇的効果を生むのだ。
じゃ、横浜美術館の大階段も、使えば、分断感や無駄なスペース感がとりのぞけて、逆になにか劇的効果を生むのかも。
参加型美術作品として、来館者に、シールを渡して、階段上の好きな箇所に貼るとか。
秋には、いちょうやもみじの葉のシール、冬にはきらきらの雪の結晶のシール(階段がキラデコ!)、春には桜の花びらのシールを渡す。来館者が増えるたびに、階段が変わっていく。素敵な階段ができあがると思うが。
展示物に関連した、展示テーマを象徴するもののシールを貼るという手もあるかもしれない。例えば音符のシールとか。
今回だと、「華氏451」がテーマだから、「文字」シールだね、まさに。
日本語だけではなく、あらゆる国の文字が、屍のように、階段上に散らばっている。詩的な階段ができあがりそう。
今ははがし跡が残らないシールは技術上いくらでも作成できるはずだから、クリーニングにもテマがかからないと思うし...。
などと妄想。
今回の展示作の中で、一番楽しみにしていたのはジョセフ・コーネルの作品で、わあ4点もある♪と、箱庭ならぬ箱世界の美しさに見ほれていると、後ろから「なんだ?ベンジョか?」という来館客のおじいさんの声が。
ワイングラスが4つ並んだ作品の、グラスがアサガオに見えたらしい。
ショックなことに、ジョセフ・コーネルとベンジョが私の中の記憶にセットで入ってしまった。
何かを鑑賞するときは、その場では口に出して感想を言わないで、無言でお願い〜。他の鑑賞者に影響を与えてしまうんだもん。感想は、その場を退出してからいくらでも言えばいいのだから。
それから、展示室内にいる立ったままの係員の存在も妙に大きくて、無意識にこちらが気を使ってしまったのも、気が散った原因のひとつ。通常の美術展の室内係員って、座っているからなのか、係員の力量なのか、「目立たなさ」に置いて非常にうまかったのね・・・。
というわけで、鑑賞に入り込めなかったせいの冷静さゆえ、逆に生まれた感想があった。
現代美術の創作者は、現代美術の発信側に参加するという使命感を、「生来のもの」として持っていないとやっていけないんだなあ、っていう感想。作為的に持ってちゃダメなんだ、たぶん。見る人によっては、ベンジョか大型ゴミかと思われてしまいかねないものを、自らの魂を削って作るには。
森村泰昌の、「こどものときに持っている感情は、大人になったらたいていの人は忘れていくが、大人になってもそれを持ったままなのが芸術家」といったコメントのボードを読んで、納得。