物質が相手

1970年以降に生まれた人たちが論客の番組「新世代が解く!ニッポンのジレンマ」を、たまに偶然見ることがあって、今までたったの二回くらいしか見ていない私の印象は、きっと的外れに違いないが、見るたびに論客たちに、ジレンマというよりトラワレ(囚われ)を感じてしまう…。
何に囚われているかというと「時間と労力をかけずに成果(たいていはお金)を得よ」という思考に。
たとえば、うろおぼえだが、前回の放送の論客のひとりの、「いい原稿を書くには、一万枚原稿を書かなくちゃだめだ、という先輩がいるけど、僕だったら、一万枚原稿を書いた人の原稿と、そうではない人(この場合、自分の原稿ということになるが)の原稿を比較して、異なる点を探りますけれどね、(→そうすれば1万枚書かなくてもそのレベルの原稿が書けるはず)」とのコメントに、そのトラワレが流れているなあ、と感じてしまったのだ。
唐突だが、私は9年間ピラティス教室に通いつづけている。今のところ、人生でもっとも長く続いている習い事かもしれない。
最初はヨガをしばらくやっていたけれど、あるときふと、レッスン時間が、ヨガは1時間半だけどピラティスは1時間なことに気がつき、当時、まだ手術までには至らない軽度の肺気胸持ちだった私は(その後手術に至ったが)とにかく体力が衰えていたので、1レッスンの時間が短いほうが体力が続くかも、というそれだけの理由でピラティスに変えてみたのだった。
で、私が思ったヨガとピラティスの違い。
ヨガは「正しいかたち」がゆるやかだけど、ピラティスは「正しいかたち」がある。「正しいかたち」でしないとインナーマッスルではなくアウターマッスルが発達するだけ。
ヨガは脳と身体に集中とリラックスを与えるけれど、ピラティスは脳と身体がお互いをつなげることに格闘する。
自分のピンポイントの筋肉に対して脳から必死で命令を出しているのに動いてくれない、とか、そもそも命令を与えたい箇所がまずわからない、そんな格闘。ヨガにはその格闘はなかった。
結局、私の場合はヨガよりピラティスのほうが性に合ったのだった。
以来、あー教室まで行くのめんどうだな〜と常にレッスン前に億劫になり、レッスン後にああ受けてよかった♪の繰り返しを経てきて。
ピラティスを初めて5年くらい経過してから、何かスポーツやってる? 社交ダンスとかしてる?などと人から聞かれるようになった。ピラティスのことを説明すると、自分もやってみようかな、と聞いた人が興味を示すので、自分もそういう身体つきを取り入れたい、って心理なのだから、私、ほめられたってことだな♪と思うことにする。
しかし。
5年かかったってことだよ、そうなるまで。9年経過中の今も、やりつづけないと維持できないんだよ。
原稿一万枚と、ピラティス9年間が同等になるかどうかわからないが、9年前の身体と9年後の身体を比べて、違いを分析して、よし、異なる点はわかったぞ!・・・って、その先どうする?
異なる点はわかっても、脳も筋肉も、即座に、思いのままに、動いてくれないし、変わってくれないよ。
9年間分の成果を手に入れるのは、けっきょく9年間、かかるよ。
思えば、自分の脳と身体であっても、それらは「素材」であり「物質」なのかもしれない。
というのは、最近、自分に対して出鱈目にアクションを与えてみることにして、ハンドメイド方面をかじっていると、素材という物質を相手にする無力さにどど〜んと直面するの。
あるときは、とんぼ玉をつくってみようかな、と思って、体験教室に参加してみると、ガラスって思い通りにならないことだらけな上に、高熱になったり、ちょっとした衝撃で割れたりと危険きまわりなく、でも自分の思い通りにならない点も、危険きまわりない点も、ガラスにはなんの責任もない。すべてガラスという物質が備えている性質なんだから。熱くても割れても、それがガラスなんだから。物質を読まなければならないのは、こっちのほうなんだから。物質はしんとして何も変わることはなく、物質とつきあって、物質を理解していかなくてはならないのは、こっちのほうなんだから。と知る。
もちろん、営利をめざす事業体であれば「素材である物質をすでに理解している人に仕事を依頼する」「その物質専門の機械に仕事をさせる」、という時間の省略化、効率化はある。費用は発生するけどね。それに、素材の理解者も機械も、その背後には理解と開発までの時間が横たわっているから、その時間を含めてお金で買うわけだけどね。そのお金が買い叩かれているというわけだけどね。
でも、「1万枚原稿を書いた人と同等の原稿を書ける能力」をつけたい対象が自分だとしたら、この手は使えないよね。
自分の脳と体を物質ととらえて、物質を相手にするのと同じこと、と考えたら、この場合、時間省略はムリな相談だと思うよ。・・・・なんてことを思った。
「脳と体」という物質使いの技術がたやすく身に付く方法があれば、ダイエットに悩む人なんていないって。
しかし私、「トラワレた論客たち」を目当てに、またこの番組を見てしまいそうな気はするのであった。