聴くこと

以前、すごく売れた「人は見た目が九割」というタイトルの新書があった。読んでないけど。
内容を勝手に推測するに、「人間の視覚情報は、他の情報を凌駕する」ということでしょ、たぶん。
でも最近思う。
聴覚情報も大きいんじゃないかって。
数年前から、会ったことのない人と電話で話す、という状況が仕事の中で増えてきた。
常に私は電話の「受け手」側で、でもそれがメインの業務ではなく、集中しなくてはいけない業務に取り組んでる最中に突如、電話がくる。
未知の相手と電話で話すという状況には「見た目が九割」という法則は全く通用せず、声や話し方の聴覚情報が十割だ。
仕事で、視覚情報を与えあう状況で未知の人と相対する、という機会はほぼないのに、なぜか電話上で未知の人と相対することをやり続けると、それなりに訓練されるみたいで。
この人、したたかだな、とか、この人、神経質だな、とか、この人、賢くはないな、とか、不必要に強気に出ようとしているな、とか…。
湿ったトーンと乾いたトーン、陰な感じ、陽な感じなどを、自分のセンサーがキャッチしていくのを感じるようになった。
人は声だけでも、その人の持つ波長が伝わるものだね。
たいていはセンサーのキャッチのみで終わるんだけど、電話をしている最中にぞっとして、その余韻が残ってしまう相手がたまにあって、それは、性根の吝嗇さ(ケチってことね)を感じる人だった。
だからたぶん私、電話を使った振り込め詐欺的なものには、ひっかからない気がする。
たぶん、声の波長に何か異常さがあるはずだから。
ただ、「声のプロ」にやられたらわかんないだろうなあ。
アナウンサーって、感情をいっさい見せない発声を身につける訓練を受けた人たちなんだろうな、と思うから。
アナウンサーの声だと、何もセンサーはキャッチしない…。ひっかかりのない声。それが万人にとって不快ではない声、ということなんだろう。
「美しいこと」とは「ひっかかりのないこと」って、こういうことも意味しているのだろうか。
ちなみに、ずいぶん前、NHKで、なぜか、「ラジオの」語学番組講師たちを、「テレビで」紹介していたことがあって。
各外国語担当のラジオの講師が、ひとりずつひとこと挨拶をしていくんだけど、やはり、声が魅力的だった。
語学番組の日本人の講師だから、声のプロではないはずなのに。
ラジオ版の場合、たぶん、候補の中で、声のいい人を厳しく選んでいるんだろうなあ。
だって、見た目よりも声のほうが、「自分ではないもの」に装うのは、圧倒的に難しいから。