日本人好み

十五年くらい前、短歌の作成にトライしたことがあって、短歌の雑誌に投稿したら、そのときの選者の穂村弘が、何作かお気に入りを選んだ中に、私のも入ったことが一度だけあった。
そのときの作品がこれ。
くちづけの長さもカットされいしを 少女は知りぬ 銀幕の外で
その短歌は、リアルなキスは、こんなに長いものであって、映画に出てくるキスシーンは演出上長さがカットされていたんだ、という発見の記憶をもとに詠んだもの。
ところが、短歌に付された穂村弘のコメントを読んだら、まったく違う解釈がされていたのに驚いたのだった。面白かったけど。
そう、短歌って、作者の意図とは離れたところで、鑑賞者が、自分なりに色々な解釈を楽しむものなんだよね。
一瞬にして写真のようにイメージがぱっとあらわれる俳句に対して、解釈の羽を広げる、謎の部分、抽象的な部分を含んだ「シーン」のような短歌。
こういう、鑑賞者にゆだねる曖昧さを含めた言語表現は、日本人好みなんじゃないかな、と思う。
「カワイイ」も、外国人が、ときにトカゲからおじいちゃんまで日本人がその使用対象とする幅広さゆえ、定義をつきとめるのに苦しんでいるようだけど、その定義の曖昧さは日本人が「カワイイ」って言葉を短歌的に使っているから、だと思う。
「カワイイ」は、使用者がそれぞれ自分の解釈を楽しんでいいもので、ときには解釈の共感が生まれることもあって、定義は決まっていない。
短歌は五七五七七語だが、カワイイなんてたった四文字だから、もはや記号に等しい。
さらに、もう文字も使わなくてもよくね?という状態になってきているのかも。
ほら、メールの絵文字、LINEスタンプとか。
あれは、文字を使わずに意図を具体化、しているように見えて、実は抽象化しているんじゃないだろうか?
明確にはせずに、受け手の解釈にゆだねます、って感じ。
文字台詞付きのスタンプだと具体化になりそうだけど、もしも文字台詞と絵柄が不思議にズレていたり、乖離していたら、抽象化になりそうな気がするし、そういうタイプのスタンプのほうが、人気が出るのかも。
しかし、文字を捨てて絵柄に行くって、文明を逆回ししているようで面白い…いや、やはり日本人は、言わずもがなで人の意図を(自分の解釈で)察するのが好きな民族なのかもしれないし。
そのうち、絵柄だけでメールのやりとりが終わるようになっちゃったりして…文字好きな私としては、それはヤダ。