タイム・オア・マネー

「違反した場合は、十年以下の懲役、または二百万円以下の罰金に処せられます。」
これ、お金持ちと貧乏人が、時間とお金のどちらを重視するかが、とても解りやすく示されたフレーズだと思う。
二択からひとつ選択した結果、二種類の人間に分かれるという前提でしょ。
「十年の懲役(時間)」と「二百万円の罰金(お金)」を天秤にかけて、どちらが自分にとって損失か。
タイム・イズ・マネーと言うけれど、時間とお金は、イコールというより、その人のなかの二つの配分・割合が変化するもの、と捉えるほうが、しっくりくる。
例えば、雇用されることって、自分の時間を売り渡しているってことだなあ、と雇用される立場の私はつくづく思うんだけど。
すべての時間を売り渡しているわけじゃなくて、それなりに自分で自由な使い方が決定できる時間もあって、最低限の生活費のほかに、自由な時間を過ごすための、潤沢ではないけれどある程度のお金をも、雇用者に時間を売り渡した対価で、得られている。
その時間とお金の割合が不満な人は、労働状況に不満があるということ。
世の中で、やっきになって高収入をねらう方々が「お金を多く稼ぎたいのは、お金から自由になるためだ」と理由を述べるのを聞いたことがあるけれど、お金から自由になれても(お金に困らなくなれても)、時間からの自由も、伴っているかは、確実ではない気がする。
逆に、自由な時間の割合をぐーんと増やしたい、と思ったら、お金は減るんじゃないだろうか…。
だから一人の人が持てる総量は決まっていて、その中の時間とお金の配分率が、9:1だったり、7:3だったりする、というイメージ。
自分の時間を減らしたくなければ、お金を使う。
お金を減らしたくなければ、時間のほうを使う。
その按配は、自分しだいで。
お金と時間、両方手に入れるのは、かなり難しい気がする。
どちらかを手放さないと。
そういえば、勤務先の会社で、約十年前に親会社からの天下りで社長になった人は、腰掛け気分、という周囲の評価の通り、社長の仕事自体には積極的ではなく、肩書きと報酬が目的だったようで、三年間で社長の座を親会社ではない社内の人間に譲ったあと、代々社長は親会社からの天下りという慣例をはずした恩を後継の社長に要求したようで、その後五年間、70歳になるまで、仕事はないが、報酬と肩書きと社内の専用の部屋を獲得した立場でいつづけた。
親会社の年収から判断するに、すでに60歳の時点から、今の私の年収を超える年金はもらっていたはずなんだけど、さらに報酬があったほうが安心だったのか、お金が必要だったのかはわからないけれど。
元社長は、そうやって合計八年間社内で日々を送り、70歳で完全に退任したあと。
その半年後に、あっけなく亡くなった。
いまや、男性でも八十歳代まで寿命があるのが普通の日本、まさかその十年以上も前に寿命がつきるとは、本人も予想外だっただろう。
そのとき、ふと、思ったのだ。
自分の時間があと半年で終わるのなら、うちで時間を過ごしていた場合では、なかったんじゃ? 人生の最終部分の八年間を。
なにか、もっとやりたいことが、あったんじゃないかな。
元社長は、仕事はしなくていいといっても、日々どこかに出社する場所が欲しかったのか、毎日出勤、在社していた。
仕事をせずに報酬(お金)を得る、という状態は、得をしているように見えて、やはり自分の時間を売り渡していたってことだったのよ、元社長。
見極め、だね。
自分の中の、時間とお金の割合の率を、思い切るタイミングの、見極め。
しかも、お金も時間も、その消費の決定が、自分ではなく他者に左右される場合もあるし。
他者の介入は自分でコントロールが器用にできないこともあるだろうけれど。
元社長の例に見るとおり、陥りやすいのは、時間より、お金に対するちょっとした欲心だな。
ここぞというときが来たら、どうぞ、私、思い切れますように。