スペース不足

数年前に、テレビで「自転車に乗れないアナウンサー」が、教室に参加して乗れるようになる、という模様を見たことがあって。
そっかあ、自転車に乗れないまま、こども時代を過ぎてしまう人は、増えつづけているかもしれないなあ、と思った。
小学生の体育の授業で一輪車を使った授業があるようだけど、一輪車に乗れても自転車に乗れるとは限らないんだろうなあ。
自転車に乗れるようになると、脳内に「自転車に乗るときの機能」が作られて永遠に有効となるので、たとえば二十年ぶりに自転車に乗っても、ちゃんと乗れるんだって。
(ちなみに小学校体育の「一輪車」は「なわとび」の代わりに取り入れられたらしい。一輪車でバランス感覚を養うのは、こどもの身体にとてもいいことだけど、なわとびは、逆に負担を与え、短足になるだけだとわかったとかなんとか。私を含め、なわとびをさんざん飛ばされた者たちはどーなるの?って感じ。)
自転車に乗れないまま大人になる都会人が存在する理由は、練習するスペースがなかった、ってことが理由のひとつじゃないかな。
自転車に乗れるようになるまでの練習場所って、近所の空地とか公園だったよね。それ、都会では、いま両方ともダメなのでは…。
乗れるようになっても、都会は自転車の駐車スペースも少ないし。
とにかく、他のさまざまな便利さと引き換えに、スペースという点は我慢せよ、というのが都会の宿命だ。
それで、今日感じたのは。
声を出せるスペースを探すのも、難しいなあ、ってこと。
小さな声じゃなくて、大きな声。
半年前から、大きな声を出すことが必要な習い事を始めて、月に一回だけのレッスンなんだけど、受けた後は、気持ちも身体も、格段に明るくなっているのがわかる。
「大きな声を出す」って、人間にとって、心身ともに、プラスの効果があるような…。
だってふだん仕事をしているときって、大きな声って出さないもん。内勤の仕事ってそうだよね。
しかし、大きな声をずっと出し続けている仕事も、それはそれで負担になりそうではある。
だから運動と同じで、仕事や労働ではなく、大きな声を出すことも、フィットネスの一種としてとりいれるのが身体にはいいと思う。
運動をするときは、声を使わなくても済んでしまうしね。
でも、都会は、運動できるスペース(フィットネスクラブなど)は提供されていても、声を出すスペースは、自転車と同じく、提供されていない…。
あ。それでカラオケに行くのかな。
店舗数が増加しているとは思えないけれど、カラオケが根強く残り続けているのは、そういうニーズを満たしているからかも。
カラオケまで行くのが面倒でも、運動嫌いな人は、スペースを都合できれば、声を出してみるのが、いいかもしれない。
声を出すことも、気持ちと身体にフィットネス的な効果を与えている気がしてならないから。
そういえば、以前、その人の体質や気質に合った食べ物やサプリメントや運動を診断するコンサルティングを受けたことがあって。
当時、私は初期の肺気胸の状態にあったので、自然治癒を期待して「身体にいいこと」をなるべくとりいれようとしていたから。(自然治癒せず結局手術したけど)
そのとき診断されたのは、本来ちょっとハードな運動をしたほうが合っている気質・体質なんだけど(運動はしないほうが合っている人、ってのもいるんだって!)今は肺気胸の状態だから、それは無理。
でも、せめて軽めの運動をと、勧められたのが、ふたつ。
「歌うこと」と「ビリヤード」だった。
ほら、歌う=声を出すことも、運動になるのよ。
ちなみに「ビリヤード」は、いくら自分の姿は自分ではわからないもの、と思いつつも、なんだかあまりにも私の雰囲気に合わない気がして、手を出さなかった。
ビリヤードは、運動量的には軽めだし、頭を使うし、今のあなたにお勧めです!と主張されましたが。
案の定、友人知人に「勧められたのがビリヤード!」と話すと、大ウケで爆笑をとることができた率100%だったので、いいネタをもらったわ、とほくそ笑んだのだった。