共通言語

私が何とか、仕事をやめず、うつ病などになることもなく、今まで働き続けていられる理由は、ひとえに、中学生のときの記憶にさかのぼる。
ある日、帰宅したら、私の部屋から、漫画が全部消えていた。
母が廃棄したのだった。
「勉強の邪魔」という理由。無駄なことをするのを嫌う母だった。
その行為に対して、私は怒らず、異議も唱えず、沈黙しただけだった。
だって、漫画の購入費の出所は、親の稼いだ金だったので。
漫画は消えたけれど、机に向かっている間100%勉強してろ、ってのは無謀な要求で、文章だのイラストだのをノートに書き溜めていたら、それも発見されて、勉強の時間を削ってこんなものを書いて、と母は怒る。
今度は、捨てられる前に自分で捨てたほうがまだ気持ちがラクだ、と決心し、中学校の焼却炉(当時は存在していた)に自分でノート(三冊くらいあったかな)を捨てに行った。
中学生にして、思った。
誰にも文句を言われずに自分の好きなものを買って、誰にも文句を言われずに自分の好きな時間の使い方をするには、自分でお金を稼ぐしかない。
親と一つ屋根の下に住むだけで、生活費の一端を負担してもらうことになってしまう。
社会人になったら、親から離れて住んで働いていかないと、自分の稼いだお金で生活していることにはならない。
ちなみに、父からはまったく、母がした類の言動を受けたことがなかったので、とにかくこれは、母と私の価値観の違いだと思う。
もし同じクラスにいたら絶対友達にはなっていなかった、という感じの、価値観の違い。
まあ、この程度の親子の価値観の違いは、いーっくらでもあること。世に、山のようにあること。
だって、二年くらい前に読んだ本で、漫画家の大御所、萩尾望都が、両親から、いったいいつになったら漫画家なんていう遊びみたいなことをやめて故郷に帰ってくるんだ?と長年責められ続けた、という話を読んで仰天。
あ、あの人に向かって?
そんな萩尾氏の両親が、やっと漫画家という職業について理解したのは、NHKの朝ドラ「ゲゲゲの女房」を見たから、とのこと。つい最近じゃん、それ…。
しかし大衆文化(朝ドラ)は偉大だ。実の娘がいくら言っても理解してくれなかったことを、すんなり理解させる力があるのね。
というわけで、結果的には娘に強烈な自立心を植えつけてくれたので、母の教育の仕方は成功した?、のか、しなかったのか、自分でもよくわからぬが。
価値観が違う間柄にして、共通の話題も、たぶん持てないだろうなあ、と思っていた。
いわば、共通言語は持てないだろうと思っていた。
仕事でも友人でもそれ以上の親密な関係でも、共通言語をもてる間柄かどうか、が大きく左右するよね。
しかし、つい最近、母との共通言語が誕生。
着物である。
母は呉服屋の娘なので、着物なら、知識もセンスも持っている。
なのにほぼ50年、葬式と結婚式以外に着物をきた母を見たことがなかったのは…無駄なことを嫌う母だからして、着物は「無駄なもの」だった生活を送ってきた、ということだろう。
二年前に、私が着物をきたい、と言い出したとき、母も(この子が?!)妹も(おねえちゃんが?!)仰天していたが、私、突如そう思ったわけではなく、そこまでいたる根拠や経路があって…まあいいかそんなことは。
とにかく、「着物をきたい私」を、母も意外に思いながらも嬉しく受け入れ、妹も不審に思いながらも自分でためしてみたら私以上に着物ラブな状態に陥り、着物という共通言語で盛り上がることができるようになる。
先月末日は、母の誕生日だったのだが、母と妹で着物をきてお誕生日ランチをした、と写メが来る。
着物姿の母はとてもいい顔をしていて、こんないい顔、見たことがあったっけ?と思うくらい、嬉しそうな笑顔だった。
とにかく、いまさらながら、着物という共通言語を発見できたのはめでたく、もっと早く着物に手をだせよ自分!とつっこみたくなるくらいだが、時間もタイミングも機会も、すべてが作用したのがたまたま二年前だった、こればかりは予測もできず、思い通りになることでもないと、突如手に入った共通言語に喜ぶのだった。