大学で得たもの? その1

「Chikirinの日記」の記事「2015-1-29 大学で得た「今、もっとも役立ってること」って何?」を読んで、自分自身のことを考えてみる。
ちなみにChikirin氏の記事の内容をざっと示すと、<授業料の対価として大学で得たものが役に立ったと断言できるのは、医療、建築、工学など、実学職業訓練的な履修内容の大学か、卒業証書そのものが価値となるネームバリューのある大学である場合ではないか。それ以外の場合は、大学に通わずとも、講義内容や履修内容がネットなど他の手段で得られる時代になっているのではないか>という感じ。
私が、大学で学んだことで、今、役立っていること。
まず、仕事で役立っていることは、ない。
ただ、無駄なことを楽しむ力がついて、生きていく上で、それは役立っている。
しかし、それは、大学に通わなくても、得られることだったかもしれない。
私は、実学からはほど遠い、文学部だったんだけど。(しかも国文学専攻。なのに卒論のテーマは文学ではなく歌舞伎だった)
そこで学んだことって、今思えば、
「情報の集め方」「情報の掘り下げ方」「情報の広げ方」
でした。
たとえば、夏目漱石のひとつの短編の中の、ある10行ほどの文章。
この10行の担当になった生徒は、一週間かけて、10行についての詳説をつくってきて、授業で発表する。
たった10行の文章中に出てくる単語、場所、人物について、調べられる限り、調べてくる。
漱石が、この短編を書いた当時、何をやっていたか、どこに住んでいたか、高じていた趣味があったか、誰と交流があったか、家族関係はどうだったかはもちろん。
10行の中に、英単語がちょっと引用されていたら、元になった英語の文献まであたってくる。
登場人物が落語を聞きにいく描写があったら、その当時存在した演芸場とか、噺家も調べる。
情報の引き出し元は、当時は、図書館の書籍か、論文・雑誌・新聞記事。
すれちがってしまう情報も、たくさんあるけれど、偶然出会う情報もある。
ただ。
今、そういう情報の調べ方って、ネット上ですべて、済んでしまうよね?
自分で、この部分から別の分野の情報に手を広げよう、と思いつかなくても、親切に、リンク先があるよ♪と単語に下線がついてて、ためしにクリックしてみれば、いくらでもリンク先にある別の情報へ広がっていくし。
それを考えると、あのとき受けた授業方法は、いまやまったく通用しないんじゃ?と恐ろしく思えてくる。
ただ、たとえばアメリカ映画を知りたければ、映画カテゴリ内の情報密度だけを高くしていってはだめで、アメリカの歴史や地理や宗教や文学方面からもアクセスしろ、という考え方を教えてくれたのは、大学に置かれている一般教養的センスだったと思う。
まあ、そういうアクセスの仕方も、大学ではないところで、今は学べる可能性があるということかな。
…と、いうことは。
情報の集め方・掘り下げ方・広げ方を大学で教わる意味は、ほぼ消滅しているけど。もう「教わる」ものでさえないけれど。(ネットの検索の仕方はだれもが知っているから)
「アクセスの仕方」…「考え方」を教わるところは…どこにでもあるわけじゃない。
というか、大学では「情報調査の仕方」は教えてくれても、「考え方」を教えてくれたわけではなかった気がする。
「考え方」は、そこはオリジナリティを出すところなんだから、個人個人でやってね、って感じ。
あ。もしかしてイノベーションの一種かも、これ。
つづく。