大学で得たもの? その2

前記事のつづき。
たとえば、絵画は、写真が登場するまでは、いかにして現実をリアルに描き出すかに技術を注いでいた、と言っていい。でも、写真が、絵画を古い技術にしてしまい、絵画が駆逐され、消滅する、というイノベーションは起こらなかった。写真が登場してしまったことで、絵画は、写真にはできない、新しい表現をつくりだしていくことになる。
写真の登場によって、絵画は芸術としてアップデートして、存続した。
大学の授業も。
ネットの登場により、学習方法が古い技術として駆逐される前に、別のかたちのアップデートが必要なのかもしれない。
それは、単にオンライン学習にしろ、ということではなくて、内容そのもの。
情報処理ではなくて、考え方そのものを学ぶという内容。
なんか、それっぽい大学もできている。
講義はオンラインで、しかし大学はリアルなキャンパスの、Minerva(ミネルバ)。
しかしMinervaの紹介に並んでいる単語を見ただけで、私、めげてしまった。
クリティカル・シンキング、クリエイティブ・シンキング、エフェクティブ・コミュニケーション…。
Minervaの創設者による、129項目の「心の習慣と根本概念」もあり、とある。
なんだか面白くなさそうである…。
私、以前「マインドマップ」を試してみたことがあるが、じゃ何か文章を書くまえに、まずマインドマップを作ってみるか、とマップをつくってから、文章を書いてみたら。
なんか、私の場合、マインドマップ作らないで書いたときのほうが、面白くできあがってる気がするんですけど…と、即座に止めた事がある。
いわゆる、文章の書き方とか、論理的な考え方、みたいな本も、目次をチェックしてみるとつまらなさそうなので、読んだことないし。
「考え方」を学ぶ、って、べつにそれ自体を目標にするというものでもないような気がしてきた。
うまくイメージ伝えられないけど、「お金を使わずにお金の使い方を学ぶ」ようなもんじゃないか?
たとえば、商業・工業デザイナーとか、技術者の「考え方」を学ぶのは面白そうだなあと思う。それらを自分で学ぶには、モノをつくりあげることで(結果を出力することで)学ぶんだろう。「デザイン」とは、「問題解決の仕方」であるというし。(ちなみに「着物」は、着るときの工程のほとんどを「結ぶ」で解決しているデザインの衣類である)
文章の書き方については、それについての本を読むより、絶対音感ならぬ、絶対文感、を持っている人の文章に浸るほうが、好きだなあ。
論理力のつけかたは、論理力のある人に接するか、そういう文章に浸ることで学ぶほうが。
…何かを学ぶのって、無意識の学習のほうが、楽しい、私には。
今、学習している、って意識のないまま、結果的に学べているほうが。
しかし、それは大学でしか得られない学習というわけでは、ない、やはり。
情報処理技術の取得が、大学に行かなくても、ネットを使う行為そのもので自然に取得できてしまうようになっているいま。
大学は学ぶ場というより、ちょっとした贅沢品のひとつ、若者に与えられるオプションのひとつなのかもしれない。
無駄だ!と判断してお金を投じること自体やめるのも手、こういう贅沢なオプションにお金を投じるのもありで、その余裕を持つ豊かさを示すのにも意味があるとするのも手。
迷わなくてすんだぶん、ネットが登場する前に大学を卒業しといて良かった…。