その成果、欲しいか?

昨年、ハンドメイドものを何種類か、体験してみた。
つまみ細工、コットンパールのアクセサリー、とんぼ玉づくり、型染め、手書き→UVジェットプリンターの布加工、ミシン縫いの半幅帯作り、機織り。
そして、思った。
私、「それによって得られる成果」が、自分の欲しいものじゃないと、ダメみたいだ。
かじっただけの私の見解など的外れだと思うが、ハンドメイドや工芸ものは、できあがった成果そのものの魅力より、作るプロセスの魅力が、とても大きいんじゃないだろうか。
ちなみに、私の場合、つくっているときは楽しかったし、ハンドメイドによってさまざまな解決方法(塗る、貼る、巻く、縫う、蒸す、工具でつぶす、などなど)に出会ったり、物質を相手にする経験が、とても面白くて、その点は、やって良かったと思う。
そして、当然のことだが、ハンドメイドの成果は、可視化される。モノが目の前に出現する。
そりゃー初心者なアマチュアだもん、たいしたものはできないよ。「手作りの愛しさ」「自分オリジナル」な魅力は、出来栄えとは関係ないものかもしれないよ。
でも、日本には、各界の手練れのプロがつくった美しいものが、職人がつくった超絶技巧のものが、すでにたくさん、溢れていて、そういうものを見抜く審美眼を備えた、そういうものにお金を投入して買い求める人を待っているよ。
成果は無視して、「楽しい時間を過ごすこと」「時間の過ごし方そのもの」に価値を求めるなら、ハンドメイドはとてもいい。
そして、たいていのハンドメイドの工房体験や、メーカーズベースのワークショップは、けっこうな賑わい。
そういう時間を過ごしたい人は、たくさんいるってことだ。
しかしハンドメイドの成果は、必ず可視化される。可視化されたものが、私にとっては、それほど欲しくないものの出現であったとき。
なんか、私の心は盛り上がれなかったのだ。
たとえばこれが、「成果が可視化できないもの」「成果が可視化しにくいもの」だったら、こんな思いは抱かなかったろう。
可視化しないぶん、成果に失望せずに済む。
あるいは、モノではなく、自分の身体能力や、技能や、知性の向上という成果であるもの。
そういったものは、自分よりはるかに能力を上回る人たちがいるからといって、不要感を抱いたりするようなものでもなく、自分の力量の向上の楽しさに、フォーカスが行くから。
たとえば、自分の行いの成果として「ブログの記事1本」や「着物姿」は、完成したとき、可視化できたとき、私にとっては「欲しいもの」の獲得に該当する。
んー…でも、ハンドメイドについては、自分にとって、すごく欲しいってわけでもないものが成果…欲しくなるくらいのレベルになるまで時間を費やすほどに欲しいってわけでもない成果…なので、ワタシ的なことではなかったかな、と。
ただね。
一方で、ハンドメイドにはまる魅力も、察知した気がする。
「ものすごい集中」の時間が、獲得できてしまうの。
火だの、針だの、ガラスだの、刃物だの、何らかの危険なものを手にした状態で、余所見や考え事なんてしていられないし、ねらっている対象がピンポイントなことも多いから、何も考えずに、集中せざるを得ない。
それは、一種の快感に思えるほど。これを味わう時間が欲しくて、はまっていく人がいるんじゃないだろうか。
一番怖かったのは、機織りだ。
まさに鶴の恩返し?!って感じで、とんとん…からりっと足も使って機織りをすると。
織り糸がきゅっと締まる感じが、手に感じられるようになって、その感覚を逃さないように、織り目が乱れないように、同じ作業を同じ順番で繰り返しつづけるのは、とてつもない集中とともに、まるで写経をしているかのように、頭も心も沈静していく感覚に陥っていく。
…これ、自宅に一台あったら、ハマるな、と思った。
ただ、私が織ったのはたかだかコースター2枚で、一番楽しいところだけをやらせてもらったのであって、機織りに入るまでの糸通しの準備、はとてつもなく大変らしいし、長尺の布を織るとなったら、織り目を乱れさせないよう、長時間、身体を同じ位置に固定させたまま織り続けることになり、それは腰痛など、身体に大変な負担となるらしい。
織っているあいだの、沈思な集中状態があまりにも快感で、脳は喜んでいて、身体は悲鳴を上げているのに、脳の喜びを優先しちゃいかねない、こわさだ。
にもかかわらず、浅草橋の本格的な機織教室は、ほぼ満員御礼なんだって。
わかりますよ、機織りするときはきっと、脳内麻薬がじわっとしみ出ているはず。もしかしたら機織りに限らず、さまざまなその他のハンドメイドも。