経験格差

小学1年生前後の、記憶。
近所のパン屋さんの、細長い店内の奥のスペース。
そこで、店主のおばさまに代金を払うんだけど、そのスペースには長いすが置いてあって。
長いすにはいつも、1匹の犬と1匹の猫が、ひたりと寄り添って座っていた。
長年連れ添った夫婦のように、穏やかで仲良しなようすで。
とてもしあわせな感じで、犬と猫は無言で寄り添っていた。いつもいつも。
当時、毎日平日に「トムとジェリー」(猫とねずみの追っかけっこだけど、犬も猫の敵的存在として登場していたので)をテレビで見ながら夕食をしていた私は、そのパン屋の長いすの上の光景が、不思議で不思議で。
親に聞くと、生まれたときから一緒に育てると、犬と猫でも仲良くなるんだよ、という答えに、納得していた。
テレビの中では犬と猫は仲が悪いが、現実ではそうとも限らない、と。
しかし、現実はそうでも、現実のとおりの回答をしたら、正解ではなく不正解とされてしまうこともある…ということを、私も含め、多くの人が、こども時代に悟るんじゃないか、と思う。
もしも、小学校の国語で、犬と猫を使った文をつくりなさい、という課題があるとして、「犬と猫は、なかよしです。」という文をつくったら、不正解になることを。
「犬と猫は、仲が悪いとは限らない」と書けば、正解かも。しかし、そんな若干ひねくれた文は、小学1年生じゃ作れないって。
会社の先輩は、こどものころ生家が和菓子屋を営んでいて、ふかした和菓子を冷ますのに、扇風機をまわしていたそうな。
そのころ、小学校のテストで、扇風機はいつ使うか?という問いに、確信を持って、「いちねんじゅう!」と回答したら、「ばつっ!」にされて返ってきたって。
友人は、妹が小学校のときのテストで、熊は二本足で立つか、立たないか?という問いに、自信を持って、「立つ!」と回答したら、ばつにされた。
しかし、なぜその回答に自信があったかというと、家族で熊牧場に観光にいったときに二足で立っている熊だらけ、だったから。
憤慨した友人のお父様は(お父様は教師だったそうな)、直接、回答をばつにした教師に電話をかけて、現実の熊の二足目撃の次第を説明し、抗議したとのこと。
…なんてことを経験していくうち、現実は違うけれど、テストで正解になる答えはこっちね、ということがわかるようになっていく。
現実は、テストの正解の外にある。
ただ、その現実、知ることができるのはすべての人、というわけではないから。
二足の熊という現実を私は知らないし、いちねんじゅう扇風機がまわっている家庭があることも、永遠の恋人どうしのように寄り添う犬と猫がいることも、みんながみんな、経験できる現実じゃない。
現実の経験値を、具体的数字にしてしまうのを好む人々もいるけれど…うーん…私は…感受性の度合いによって、見えない数値というものがあることを信じたい…。
同一の事実や経験に対して、いやらしいこととか、背徳的なことという受け止め方もあれば、なんて無邪気な行為なんだろう、とうっとりする受け止め方も、ある…。それは受け止め方しだいで。
わかりやすく数値で判定される経験格差もあるだろうけどさ、うけとめる力、とらえ方の感度で、巨大な経験でも些細な経験でも、どうとでも楽しめると思うね。