天才と秀才と凡才

以前、スカーレット・ヨハンセンがヒロイン役の、画家フェルメールを扱った映画「真珠の首飾りの少女」を見たとき。
天才と秀才と凡才の役割がとてもわかりやすく描かれているなあ、と思った。
フェルメール=天才、ヒロインの少女=秀才、フェルメールの姑=凡才、であった。
天才の位置づけは、わかるよね。
秀才の位置づけは何かというと、「天才の凄さが理解できる人」だ。
凡才の位置づけは、「天才の凄さが自分にはさっぱりわからないけれど、天才が仕事をしやすくするために、自分が手助けできることが何かはわかる、そして天才がいい仕事をした結果、自分が受けられるメリットがあることを理解している人」だ。
天才は、秀才がいなければ、精神的に孤独。凡才がいなければ、生活的、物質的に孤独。
ときには、秀才が凡才の役割まで兼ねてしまうことがあるが。(芸術がわかっているお金持ちのパトロンや、配偶者など)
もちろん、天才は、ある一分野において、であって、分野が代われば、天才、秀才、凡才の位置づけが変わる事はいくらでもある。
思えば、生きているあいだに名声を得る天才には、必ず秀才と凡才がついているはず。
あれ?
もしかして、天才が一番弱い立場にならなくね?
秀才も凡才も得られない天才は、どうすればいいの…?
ゴッホみたいに、後世になって、秀才や凡才が現れるってこともあるか。