たくらみが必要

数年前に、今はなくなってしまった青山ユニマット美術館へ「キスリング展」を見に行ったとき。
キスリングの作品の他にも、同時代の画家のものが何点か展示されていて、その中にルノワールの絵があった。
それは、B5サイズより小さめの正方形に近いサイズの絵で、画面いっぱいに、ひとつの壺が描かれていた。
小さな注ぎ口がきゅっとしまって、そこからぐいんっ!と激しく太ったフォルムの、艶っとした壺。
この壺、可愛いなあ、なんか幸せそうだなあ、好きだなあ…。
と、しばらく見惚れていて。
突如、気がついた。
この壺、女の人だよね?!
ルノワールの描く、つやつやふくよかな女の人、そのもの!
ルノワール、壺を描こうとしたんじゃなくて、女の人を壺で描いたんだよね?!
そうじゃなければ、こんなにつやっとした生命感をもった壺にならない…。
たくらみだ。
たくらみを持って、つくられたものは、たくらみがなく、つくられたものと、全く違うものになる。
それは絵画に限らず、映画でも、小説でも、服でも、椅子でも、人間がつくるものはなんでも、たくらみがしこめる。
たくらみだから、誰しもが見えるものではない。仕込むほうも、誰しもに見せたいと思って仕込んではいない、たぶん。
今は亡き、美術史家の若桑みどり先生が、レオナルド・ダ・ヴィンチについての講義で、注文主にはわからない、後世に伝えるメッセージを画家は作品にこめたんです、と話していた。
レオナルドは、この絵の注文主はあと十年で死ぬけど、私の絵は五百年残る…だから、私の作品に後世に伝える謎を込めよう、としたわけ。
いまもなお、レオナルドの仕込んだ謎を、世界中が夢中で研究中。
創作者のメッセージ、謎、たくらみ。
それに気がついたときは、まさにアハ体験そのもの。
仕事でそれできないかしら…と無理なことを考えた。
資料と、伝えかたは、シンプルに、がそれにあたるかも。
資料とか伝え方を、量的に多くするのは、作り手が凄いように見えて、ついやっちゃうんだけど。
多大な思考をたくらみとして封印し、できるだけシンプルに仕上げるほうが、高度なわざなんだよなあ。
あとね、凝らないほうがいいよね。
仕事の事務を何かとITでやろうとする世の中だけど、蚊を一匹殺すのに、わざわざバズーカ砲を使うかよ、というような懲り方は、どうかしてます…。