経験かセンスか

ライブラリーカフェで、見城徹氏の新刊を見かけ、読み始めてまもなく読む気力が失せ、途中で棚に戻す。
私ごときがこんなことを言ったら無礼だし、何の意味もないことだけれど、私、この方とお食事(=お話)したくないなあ、と思った…。
話法が「オレオレ」なんだもん。
オレはこういうことを成し遂げた、オレはこういう苦難を乗り切った、だから君も、がんばれ、という話法。
こういう話を聞かせてもらいたい!という人もいれば、そういう話をされても面白くないし楽しくないです、という私のような不届きモノも、いるのではないだろうか。
しかし、しばらくして気がついたのだ。
氏は、経験重視の方なんだなあ、と。
経験に裏打ちされた言葉でなければ、発する資格はない、と考える真摯な方なのではと。
同じように、経験を重んずる人たちが、この人を師として、この人の言葉に喜び、言葉を求めるのだろう。
私は、その人の経験したことが根拠でなくても、たとえ他の人や他の表現媒体の受け売りでも、ひらめきでも、面白かったり、自分の中に新しい視点を提供してもらったり、気持ちよい納得ができれば、そのほうが好きなので…。
だってかなりがんばっても、人ひとりの経験範囲は限度があるし。
日本より世界より、人の頭の中のほうが広いでしょう、という夏目漱石三四郎」中の台詞のほうが納得できるんだよなあ。(あ、これも受け売りだ)
なんてったって、ときに漫画や映画やアニメーションなどの、二次元上の人物の言葉のほうが、心に響いてしまったり、バイブル的な言葉となってしまう現象さえ、あるはずだから。
経験よりも感覚(センス)が好き、なのかも。
経験重視派には、思いっきり軽蔑されそうだけどね。