イメージの限界

世の中には、「わからないこと」がたくさんあって。
どうしても「わからないこと」より「わかること」になびいてしまう。
そのひとつの例が、就職。
学生のときに、目指す職業、会社として人気があるのは、「わかりやすい」こと・ものなんだと思う。
仕事の内容、会社の内容の、イメージがしやすいもの。
たとえば、知人の大学生の弟は、ゲーム関連会社に就職するのが目標なんだそうだ。
それは、今いる自分の世界の中にゲームがあって、ゲームのイメージが具体的につかめて、だからゲームをつくる仕事も、イメージがしやすくて、目標にもしやすいということ。
就職先の人気企業として「○イバー○ージェント」があがっているのも、代表取締役の姿を含め、学生が自分の世界の中で見かけている、イメージがしやすい会社だからなんだろう。
…本当の大物は、表には出ないものなんですが。学生が知らない大物は、いっぱいいるんだよ、まだまだ。
そりゃあ、イメージが不確かなことを目標とせよ、ったって無理だよね。
学生の時点で知る世界も、つかめるイメージにも、限界がある。
世の中には、膨大な、未知の世界、未知のイメージが横たわっているんだけど、そこに入っていくと。
「わからないこと」に耐えなくてはならない。
「わからないこと」なのに、やらなくてはいけない。
「わからないこと」に耐える時間は、何ヶ月か、何年か、わからない。
「わからないこと」が「わかること」になっても、断続的に新たな「わからないこと」に出会い続けるのかもしれない。
永遠に「わからないこと」からは、逃れられないかもしれない。
就職をして、早々に退社する人の理由のひとつには、「わからないこと」に耐えられない、というのもあるような気がする。
いまだに私、わからなくて、わかろうとして、もがき続けているよ。
「わからないこと」に向かう恐怖の度合いも、なんども経験したからって、その度合いが減るってことがないのが不思議だ。