土用の読書

自宅のエアコンは、冷房にしか使わない。
もともとエアコンの風が苦手なので、冬の暖房は、オイルヒーターを使っているから。
一週間前まで、冷房としてのエアコンも、使用開始していなかったんだけど。
夏土用の暑さには、勝てないので、先週末からついに使用開始。
でも、使用開始する前に、フィルター掃除しないと!
フィルター掃除の方法は、ずうっと前、たしか「伊東家の食卓」で紹介されていた方法。
水分含有率0%の、カラカラのスポンジを使う。
100円ショップで売っているスポンジで十分。
水分ゼロであることが重要なので、食器洗い用とは別に確保しておくといい。
プリンみたいに、ナイロン部分とスポンジ部分が二層になっていてもいい。
ただし、使うのは、やわらかいほう、スポンジ部分だけである。
埃受けの紙をしいて、外したフィルターを持ってきて、フィルターの表面を、スポンジのやわらかいほうの面で、撫でるだけ。
面と平行に撫でても、斜めの角度で小刻みに撫でても、自由にやればよし。
フィルターの埃がスポンジ面に、たっぷりからまってくる。
スポンジについた埃は、手指や、ガムテープを使って、別途とらなくてはいけない空しさはあるが。
しかし、掃除機を持ち出したり、水を使うよりは、ずうっとラクだよ。
紙に埃を落として、紙ごと捨てて、フィルターをはめ込んで、フィルター掃除終了、冷房開始。
土用開けの、8月8日の明け方までが、きっと、今年いちばん、暑いとき。
土用のせいか、土用っぽい本に手がのびて、ただいま拾い読み中。
イギリスの作家ジョン・ファウルズの小説「コレクター」の日本語訳(白水社)と、調子にのって、英語の原書もアマゾンで買っちゃったよ。
主人公と、主人公が誘拐した女性ミランダの、交互のモノローグで構成される小説、「コレクター」。
私が最初にこの物語を知ったのは、テレンス・スタンプ主演の映画版だったけど、原作小説を読もうと思ったのは…。
イギリスが舞台のこの小説で、主人公とミランダは、階級差がある設定で、いわば階級の対立を描く小説でもあって、原書の英文を読んだだけで、ふたりの英文の差、階級の差がわかる仕組みになっている、と聞いたから。
ふうん、いつか英文に触れてみよう、と思っていたので、原書だけでも買っておくことにした。
とはいえ、まずは日本語版を読むのが先なのだ。
はたして、日本語でも、ふたりの「階級差」は文面だけでわかるものなのか?
前半は、主人公の語りによる、描写がつづく。
目の前に起こっていること、自分が思ったこと、自分の行動の内容、ミランダの言動、そのままを述べていて、文章が読みにくいという印象もなくて。
その文章に慣れたところで、ミランダの章に切り替わったとき。
がらりと文章の印象が変わる。
ミランダのほうが、賢い!と瞬時に悟るしくみになっている。
ミランダの文章に触れてはじめて、主人公の教養や思考力が、ミランダより何段か劣るものであることに、気づく。「考えない」主人公の、ある種の不気味さにも気づく。
意外なのが、ミランダのモノローグのセンテンスのほうが、短いこと。
まだ英文のほうを見ていないけれど、上の階級の英語って、センテンスが短いものなの??
主人公のセンテンスのほうが、むしろ長い。でも、思考が浅い。
目の前に起こっている事象を語るけれど、その内側には、入っていかない。自分の内側にも入っていかない。
ミランダのセンテンスのほうが短くて、切れがあって。
目の前に起こっている事象だけではなく、思考を綴り、監禁状態に置かれた自分の心の内側を見つめ、主人公の心の内側も覗こうとしている。
事象の表面しか、見えない主人公なのだから、ミランダの「表面」に、恋しているだけ。
そのことが、主人公には見えず、ミランダには見えている。
引用開始〜
「私は標本のなかの一匹の蝶だ。飛んで行こうとして翅をバタバタさせると、彼は私を憎む。
つまり私は死んでいて、ピンで留められ、いつも同じで、いつも美しい、それだけの存在なのだ。
私の美の一部は生きていることのせいであり、そのことは彼も分っているのだが、それにしても彼が欲しいのは死んでいる私なのだ。
生きていて、しかも死んでいる私が欲しいのだ。…私が生きていて、絶えず変化し、気が変り、雰囲気が変る。そのことはだんだん厄介なことになりつつあるのだ。」
〜引用終了
土用の読書にはぴったりの本を選んだわ、と自分で悦にいっているが。
読みの速度が、スローだから、土用が終わっても、(日本語版でさえも)読み終えてないかも、と危惧。