赤いスイートピー 再考

新年なのに、年末の話をするのは粋ではないかもしれない。
しかしね、年末の紅白の松田聖子の「赤いスイートピー」。
こんな歌だったのか・・・と、ぼーぜんとしてしまって。
毎年、紅白には「平和礼賛」をあきらかにしたり、しのばせたりする歌や演出が登場する。
今年もそう。
そういう歌がつづいたあとで、そういう舞台がセッテイングされたうえで、松田聖子赤いスイートピーを歌われたときに。
聴き手にもよるが、私には、違う色彩を帯びたものに・・・なった。
たったひとりの女の子の、たったひとりの好きなひとへの想いの歌。
戦争はよくない、平和がすばらしい、という礼賛をひそめた歌の数々よりも、衝撃的だったのである。
だって、「無視」しているから。
かつて、谷崎潤一郎の「細雪」が、なぜ戦時中に発禁処分を受けたかというと、戦争を「無視」していたから、と以前聞いた。
物語の時代背景で無視できないはずの戦争を、まるっきり無視したから。
「抵抗」よりも「無視」のほうが、衝撃的なのだ。
「無視」ということは、「存在しない」ということで、これがなければ、こうなる、ということを示していることにもなるから。
たったひとりの女の子の、好きな「あなた」への丁寧な想いを歌うことができる場と時間、松田聖子のような奇跡的な若さの五十代が存在する場と時間に、今、わたしは生きている。
ついていきたい「あなた」とは、なんなのだろう?
翼の生えたブーツで、同じ青春を走っていきたい「あなた」とは、なんなのだろう?
もしかして人ではなくて、もっと大きな、何かではないか?とまで考えてしまうような。
たしか、作詞家、松本隆は、松田聖子の歌詞を初めて作るまえ、関係者に案内されてコンサートに見学をしにいき、その場で「客層を変えてもいいか?」と聞いたという。
そのときの聖子の客(ファン)層は男子ばかりで、コンサート会場は声援がうるさすぎて、聖子の歌がほとんど聞こえない状態だった。
歌詞だけで、ファン層を変える?
そう、変わったのだ。男子ばかりではなく、女子ばかりに。
赤いスイートピー」はもちろん、女子ばかりファン層に変わったあとの、歌である。
こんな恋があるのね〜と聴き入っていると、とんでもないことに気がつく。
当時、「赤い」スイートピーは、存在しない花だった。
だから歌詞には、「心の岸辺に咲いた、赤いスイートピー」と歌われている。現実の岸辺ではなく。
じゃあ、しょせん、こんな恋はまぼろし?と思いきや、「線路の脇のつぼみは、赤いスイートピー」で終わる。
花がどんな色をしているかは、つぼみの状態ではわからない、咲いてみないと。
今は存在しない花(世界)だけれど未来には存在するかもしれないよ、という終わり方あああっ。すごいなー松本隆
(ちなみに、品種改良がすすんだみたいで、赤に近いスイートピーができてからは、「続・赤いスイートピー」の歌詞で、「赤いスイートピーの花ひとつ、髪へと飾るのよ」と、現実化した花として歌っているのに、恋は破綻してしまった、(まぼろしになっている)という歌詞の内容だったね。ぬかりもないんだなー。)