ブリッジ・オブ・スパイ

スピルバーグには、描きたい主人公の型があるんだなあ、と思う。
平板な日常を送っていた、平凡な少年や青年や男性が、ある日突然、非日常な状況に投げ込まれる。
その非日常は、異質なもの(凶暴ドライバーや凶暴ザメや恐竜や異星人)との思いがけない出会いだったり、異国への拉致や異国での孤立(アミスタッド、ターミナル)だったり、戦時下の敵国内でのサバイバルや孤立の行動(太陽の帝国プライベート・ライアンミュンヘンシンドラーのリスト)だったり、保護者をすべてなくしてひとりで生きていかなくてはならない状況(キャッチ・ミーイフユーキャン、A.I)だったり、自覚なき犯罪者にされ、それまで安住していた社会の人間がすべて敵になったり(マイノリティ・レポート)と、さまざま。
主人公たちには、自らの危機的状況からの脱出の他に、使命があることが多い。
それは、他者の目的を達成すること。
自分以外の誰かの望みを果たすこと、誰かの身を救うこと、誰かを、安全な場所に帰着させること。
ブリッジ・オブ・スパイ」の、東側スパイは、E.T.アメリカの弁護士(トム・ハンクス)は、エリオット少年なのである。
(ラストシーンの、眼鏡を外した東側スパイの顔だちは、どことなくE.T.に似ていた気がする・・・とてもとても、いい顔だった。マーク・ライアンス、いい役者・・・)
このような見方は、パターン化のようで、かえって見方をせばめることかもしれないけれど。
私は、スピルバーグの「型」として楽しんでいる。
歌舞伎、落語、狂言、能、シェイクスピアギリシア古典劇などは、古来から同じものを上演しつづけている。
同じ「型」がどのように表現されるかを、観客は見にきている。
新しい物語を求めているわけじゃなくて、新しい表現を求めている。
人はそれぞれ、表現したいものがあって、映画をつくる人は、映画を使って表現している。
表現したい人は、どれだけ多いことか。が、ようくわかるもんね、ネットを見れば。