デフォルトモードネットワーク

何もしていないときでも脳は働いている、というデフォルトモードネットワークのことを知って、そうか、一分一秒無駄にせずに、有益なことをやっていなければならないわけじゃないんだ、やったあ♪と自己満足する。
無為に見える時間も、無為とは限らないということになる。
こどものすることは、たいてい無為だ。
母親は、こどもによる無為なことに、とことんつきあってくれる人だったんだなあ、と思う。
無為なものに興味をひかれ、無為なことを口にし、無為な作業に夢中になっている、こどもの無為な時間に、母親はつきあってくれる。
私は母ではないので、自分がこどもだったときの母のこと、という観点でしか語れないけれど。
それでだね。
母親は、こどもを数値化して評価するだろうか?
性差とか、年齢とか、身体組成データによる健康状態とか、容姿とか、知能とか、月間学習時間とか、月間お手伝い時間とか。
今月のあなたを数値化すると、こうねっ、とか、やるものだろうか?
母親によるこども、だけじゃなくて、妻が夫に、夫が妻に、こどもが親に、恋人が恋人に、やるもんだろうか?
そして、数値化や評価をされる側は、それをうれしく思うんだろうか?
もちろん、ごく自然に、それができている人たちもいて、わたしの考え方が奇妙なのかもしれない。
それができている人たちは、じぶんでじぶんを数値化して評価する、こともできている人なのかもしれない。
無為なところに数値は産まれない。
数値が産まれるところは有益なのか。
人間にはまだまだ未知なところがある。
デフォルトモードネットワークみたいに。
でも、どこかでデフォルトモードネットワークの存在に、無自覚に気が付いている人もいるみたいに。