切実な感じ

昨日、映画館にいたとき、突然思った。
映画を見る環境は、私がこどもの頃や、学生の頃に比べて、格段に恵まれている。
恵まれるということは、受けとるものが増えるということ・・・でも。
「切実な感じ」は、減っている気がする。
ふかふかのシートで、前列にどんなに背の高い人に座られても、ちゃんとスクリーンが見渡せて、音響も冷暖房設備も申し分なくて、予約をすれば、当日料金でも並ばずに席をとることができて、(昔それができる指定席は三千円以上というばか高さだった)旧作の映画が見たければ、レンタルやダウンロードで見ることができて・・・。
でも「見たかった映画に出会う」ことがとても希少な機会だったころは、見ることにもっと必死で、切実だったなあと思う。
ビデオ一本の価格がとんでもなく高くて、レンタルビデオ店もほとんど存在しなかった高校生のころ、通っていた画塾内で、「2001年宇宙の旅」のビデオ上映があるってよ、という催事に集まった高校生たちは、室内に座席なんてないから、床に座り込んで、家庭にあるブラウン管テレビと同じようなサイズの画面に映し出された、初めて見る、一度見てみたかった「2001年」を、一言も声を出すことなく、二時間以上、見入っていた。
大学生のとき、高田馬場で、マンションの一室で旧作を上映しているACTミニシアターという名画座へ、夜9時から始まる「戦場にかける橋」を、女子学生どうしで、おっかなびっくり見に行くと、靴を脱いであがる室内には、やはり座席なんてなくて、その夜のお客は学生ばかりみたいな雰囲気の中、クッションやテレビ枕みたいなものも置いてあったから、みな思い思いの格好で、とても熱心に映画を見ていた。
自分用のビデオデッキを持っているひとりぐらしの友人の家に、三、四人で集まって、泊りがけで一晩で三、四本のビデオをみんなで見る、という催しが定期的にあって、まずみんなでレンタルビデオ店に寄り、ひとり1本、その人の好みでビデオを選んで、作品によっては、ののしりに近いつっこみをわいわい入れながら、一晩中見たりしたこととか。
映画館に行かないと見れない、ビデオデッキがあるところに行かないと見れない、という物理的な制約があったから、自然と人が「集まる」ことになったのだ。ビデオデッキがある、というだけで、人を集める力になったのだ。
ビデオがDVDになって、プレーヤーもDVDも、社会人なら手がとどく価格になって、名画座に行かなくても、誰かの家に集まらなくても、人の好みにつきあわなくても、個人が、見たいものを見たいときに見たいだけ、見ることができるようになった、見るまでの手続きがずいぶん減った、今の状況は、夢のような状況なのだろうか・・・。
もちろん、生まれたときから、そういう状況、という人もいる。
「映画を見ようとする」だけで、切実な感じ、切実な記憶を、得られてしまったことは、スゴい、と今、思う。
「切実な感じ」「切実な記憶」をもらおうとすると、今はもっと、めんどうな手続きを踏むことが必要なのかもしれない。
めんどうな手続きを踏まずに手に入るモノや、賞賛や、人間や、異性には、切実な感じがあるとは限らないのかもしれない。
切実な感じが欲しくて、めんどうな手続きを踏むためにお金を払うお金持ちも、いるのかもしれない・・・。