映画:ヘイトフル・エイト

タランティーノの作品で一番好きなのは、今でも「レザボア・ドッグズ」である。
公開当時、たしか渋谷のミニシアターで見て、鳥肌が立つほどにしびれて、次作の「パルプ・フィクション」で、タラちゃんはいきなりカンヌでグランプリをとって、あれよあれよというまにカルトな監督からスターな監督になって、でもいまだに、「レザボア」を超える衝撃はないなあ。
お金をかければいい映画ができるというわけじゃない、と深く強く思う。
ヘイトフル・エイト」は、「レザボア・ドッグズ」を思い起こさせるような、タランティーノらしい映画だった。
じぶんの芸風をストレートに表したような映画だった。
銃と、暴力と、血と、死肉であふれる残酷描写と、役者冥利につきるたっぷりのセリフつき演技の応酬と、登場人物の狂いっぷりに目がくらみがちだけれど、すうっと首筋が冷たくなるような、心底ぞっとするのは、集団の中で、そういう立場に縁がなかったはずの人間が、形勢逆転的に突如、圧倒的に力をもった人間になる瞬間の、そのこころのありようの、豹変ぶりだったりする。
(見た人は、誰のことかわかるね?)
こころが一番おそろしい。
と、同時に、こころが一番美しい。
一番大切にしたいものを、一番美しくみせたいものを、タランティーノはバイオレンスと絶望にくるんでさしだす。
その想いと美しさが、より映えるように。
それは、血と泥の中をかきわけて見つかる宝石の破片みたいなもの。
登場する人間たちが、恐ろしいほどの苦労と苦難をする果てに、報われるか救われるかと言えば、そうとは言えないのがタランティーノ
(報われる結末の作品も最近はつくっていたけれど)
報われず、救われず、代償の要求もなく、絆を築いてきたつながりのためだけに、我が身を差し出す人間のこころを、タランティーノは観客にさしだす。日本のヤクザ映画の仁義を、こんなふうに移植したよ、と。