贅沢の種子

人から、お金に対して、わかりやすく執着や欲望を示されるのは、それが人間としてあたりまえの前向きなエネルギー、とわかっていても、一抹の不快が残ってしまうのはなぜなんだろう。
なぜなんだろう、なぜなんだろう・・・・。
・・・・・。
その人が。
・・・・じぶんのお金をじぶんのために(まだ)使っていないからじゃないだろうか・・・・。
お金の額面はもちろん、その人の身の丈にあった額面になるが。
装飾の究極は、飾りがないこと、に行き着くというが。
お金を伴った幸せを追求していくと、その究極は、お金を伴わない幸せに行き着くんじゃないだろうか。
たとえば、ヨーロッパの老舗五つ星ホテルのスイートルームに宿泊して、エスカーダのドレスを着てブルガリのジュエリーをつけて、三ツ星レストランのディナーやオペラに行かなくても(むろん私はそんな額面のお金を使えた人間じゃないけど)朝、近所を歩いているだけで、同じレベルの幸せを感じちゃうとか。
それは、じぶんに許せる額面のじぶんのお金をじぶんに使ってみて、ああ、お金を伴う娯楽って、こういうものなのね、ふうん、と納得するからじゃないだろうか。
お金に助けられて、自分に手がとどく贅沢と触れ合った結果、贅沢の種子を、日常のなかに見つけるセンスが身につくんじゃないだろうか。
春分の日の朝に、とつぜん自宅隣の常緑樹のこじんまりとした林にやってきた、うぐいすの声で、毎朝目覚めながら思うのだった。
うぐいすがはじめて来た朝、外に出てみると、林の真下にたたずんで、うぐいすの声に聞き入っている老婦人と黒いラブラドールレトリバーが、ほほえましかったのだった。
たまに、うぐいすの鳴き方を、まねしようとこころみている一般的な鳥の声もきこえてきて、ほほえましいのだった。
ちなみに、人のお金をじぶんのために使うと、逆にその欲望は底なしとなると思う。
生意気な言い分だけど、強い確信がある・・・。
そして、贅沢の種子は、種子を見つけるセンサーは、じぶんに残らない。