ケチるということ

過去を振り返ってみて、いくつかのポイントで、「ちょっとケチ」になったために、大きな幸せを逃していた、ことに気がつく。
たとえばそれは、ロンドン旅行で、素敵なお屋敷ホテルの部屋を直接ネット予約したとき。
「二割引の部屋」に申し込んでみたら、到着してチェックインしてみたら、それは窓なしの部屋だった、ってぐあい。
「二割」をケチるとこうなるのか、という戒めと思い出としておこう。
戒めになるどころか、懲りずにそれと似たようなことをその後も起こして。
ケチになるなら、大いにケチになれる局面であればそうしてもいいけれど、ちょっとケチになるべきかどうかという局面では、そのケチを捨てるべきなんだろう、とやっと学んだ気がする。
ケチ・・・・・・。
思えばそれは、何を逃すか、何を残すか、ということより。
現在に得るもののために、未来に得るものを削ることかもしれない。
未来のじぶんから、いまのじぶんが何を奪い取ってくるか、ということなのかもしれない。
遠い未来じゃなくても、ちょっと先の未来のじぶんのために、今のじぶんの即効性のある欲望を遂げるのをやめるかどうか?
それはお金じゃなくて、行動であっても同じ。
いまのじぶんがこの行動をしたら、この行動をしなかったら、未来のじぶんは何を失うのか、得るのか。
それを知るのは、おとなだけじゃなくて、こどももそうなのかもしれない。
たとえば、小学生のこどもが、もしも今日学校に行って、クラスメイトの誰かを殺したら、今日の晩から、もう二度と、きみはじぶんの家に、じぶんの部屋に、戻ってこられない。
そう告げれば、うしなうものの姿がとりあえずのみこみやすくなるんじゃないか。
小学生じゃなくて、中学生、高校生、大学生、となったら、もっと具体的に、もっと社会的に、その姿があらわれてくるはずだろう。