負ける服装

建築家・隈研吾の著書「負ける建築」から、「負ける服装」を連想した。
周囲の環境を圧倒し、ときには建築家のモニュメントのごとくな「勝つ建築」に対して、「負ける建築」は、環境と調和し、自己主張を抑え、持続可能なもの。
だったら「負ける服装」というのも、あるのでは?
環境と調和し、自己主張を抑え、持続可能なもの。
服装について、「制服化」は、頭にあったけれど、「負ける服装」もいいなあ。
最近読んだ本に、光野桃「自由を着る」や稲垣えみ子「アフロ記者が記者として書いてきたこと。退職したからこそ書けたこと。 」があって、二冊の内容はそれぞれ面白くて、ぜんぜんちがっているのだが、共通したワードが、私の中に、すくいとられてきた。
弱さは力、弱さは抱いたまま生きていい、ということ。
「弱さ」が力、「負ける」も力かもしれないとすると。
光野桃氏も、稲垣えみ子氏も、ごじぶんなりの負け方を見つけたとも思える。
じぶんの感性が命ずる美しいものを選ぶ光野氏、アフロヘアーを最大の個性的装飾にした稲垣氏。(でも自己主張のためにではない)
さて、「負ける服装」が、環境と調和し、自己主張を抑え、持続可能な服装だとする。
自己主張を抑えるというのは、じぶんが勝とうとしないということかな。
持続可能というのは・・・人生の中で、時間面でも費用面でも精神面でも、服装に、そんなにかまっちゃいられない、とも受け取れる。
だから着るものも食べものも、制服化・定番化している成功者もいるわけだね。
「環境」というのは、自分の生活ということだね。
生きる環境、働く環境、じぶんの雰囲気やこころや性格や好ききらい、からだ、年齢。
・・・環境って、変化するじゃないか。
それに調和するとなると、変化しなくてはならない。
それは、どんどん「負ける」ことなんじゃないかなあ、と思う。
いい意味で負ける、負けるは力。
こういう変化がきたか、じゃあ、今度はどうやって負ける?勝つじゃなくて。
勝ち方より、負け方を考えてみるのも面白い。