その後のコウリツ

数年前だったか、勤務先で、効率、効率、という単語を連呼する人がいっぱいいた。
コウリツというのは、労少なくして益多し、という状態にすることだから、まず「労少なし」の手法を考えようとする人が多かった。
仕事の「かたち」はみなちがうから、「労少なし」の「かたち」もみなちがう。
わたしの業務範囲であらわれた「労少なし」の「かたち」は、一枚の紙に、いろいろな要素をのっけちゃおう、という発想だった。
紙一枚で、ひとつの業務を動かす、というかたちだったところ、紙一枚で、いつつの業務を動かしちゃおう、という発想だった。
今、数年経って、その紙がどうなっているかというと、内容の精度が、がたおちなのである。
項目まちがいや、古いデータのメンテナンス放置が、どんどん増えつづける。
ひとつの関門でクリアできていたのが、いつつの関門になったのだから、ワナに落ちる確率も増えるわけなのだ。
ひとつの要素を変更しようとすると、いつつ全部変更しなきゃならないから、メンテナンス量も増えるわけなのだ。
いつつの要素がぜんぶ正確にそろった紙にお目にかかる確率は、どんどん低くなっていく。
紙の問題であれば、まだどうにかなるものの、同じ考え方が、コンピュータシステムに使われてしまった場合、もっと大変なことになっている。
ひとつの要素を直すために、いつつの要素も直さなきゃいけない、ひとつの要素で問題が起きると、いつつの要素で問題が起きる、という具合に。
ひとつやるだけで、いつつのことが動くほうがコウリツ的という発想は・・・・素晴らしい結果になってないよ。
目的地に到達するのに、ふたり乗りの車20台で行くのと、40人乗りのバス1台で行くのと、どちらがいい?ということだ。
ふたりそろった車から、次々と目的地に出発できるか、40人揃うまでは、一歩もすすめないか、どちらがいい?
40人揃ってから、車を動かすことこそが、コウリツ的なんだ、ということだろうけど、すこしずつ、早く出発できれば楽しくない?
「ふたり乗り20台」の発想と「40人乗り1台」の発想とどっちが楽しい?
コウリツって、つまりケチってこと?と思う今日このごろ。