片手生活

一週間前、左手の関節の一部にトラブルが起こって、まさかの片手生活をしていた。
右手だけだと書類にゼムクリップひとつ挟むのにも悪戦苦闘したり(コツを発見してできるようになったけど)ゴツいボタンは片手でとめはずしできても、小さな貝ボタンだと不可能と気づいて、ボタンなしの服ばっかり着ていたり、いままで一度も片手で卵を割ったことがなかったのを、やるしかない!と決意して、えい!と初めて割ったりして、すごく不便な生活。
だんだん治ってきたので、年末年始は元気に越せそう。
左手の治療に通っていた整骨院の待合室で、取り付けられたモニターに流れる医療機器のCMを何となく見ていたとき。
それは、介護に関する重労働の一部を担う機器のCMで、患者の身体をベッドに移動させる機械の宣伝だった。
使用感を聞かれたおじいさんが、「申しわけないきもちを持たなくて済むのがうれしい」と言っているのに、はっとする。
生身の人間に力仕事をしてもらうことより、機械にしてもらうほうが、申しわけないきもちが少ない・・・うん、当然だ。
自動車だって、前世代は人力車で、その前の世代はカゴで・・・人力や馬力や牛力に頼っていた。
人間や馬や牛に「申しわけないきもち」も、機械化の原動力のひとつにあるのかも。
ロボットに仕事を奪われる〜んじゃなくて、誰かから申しわけないきもちを減らしてくれるのがロボットなんだよ、ととらえればいいのかも。
ちなみに、私の左手の治療は、腫れが早くひくように機械の電波を当てる部分はいわばロボット力、固定のために包帯を巻いてくれたのは人力で。
巻き上がった包帯は、よく曲線のかたまりの人間の手を、こんなに見事につつみこみつつ、ゆるまずに巻けるものだな〜とほれぼれする出来だった。
申しわけないというきもちはみじんも湧かず、感心と感謝だけがある。
感心と感謝をもらう仕事は、ロボットにわたさなくてもいい気がする。