山田五郎さん。


一昨日、NHK青山カルチャーセンターで山田五郎氏の「90分でわかる! 西洋絵画史入門」の講演を聴く。
山田五郎さんは一度実物を見てみたいなあ、と思っていた方で、会場での男女比を見ると、やはり女性に、それも幅広い年齢層の女性に人気がある方らしい。
たぶん非常にモテる方なんだろうなあ。モテ声でもあるし。
講義の中身は、最初に「西洋絵画史を90分で語る。ムリですよ」と笑いをとりつつも、ポンペイで偶然に保存されることになった紀元前の絵画から始まって、19世紀までの西洋絵画史を、ユーモラスでクリアな表現で語ってくれた。
たとえば、エドゥアール・マネのことを「ここで、マネ先輩が登場します」との説明に、マ、マネ先輩ってなに?と思ったら、マネは当時のパリ画壇の権威、官展に何度もスキャンダラスな絵画(草上の昼食とかオランピアとか)を出品しつづけては、酷評されつづけた画家で、そんなマネを慕って、先輩すごいっすよ〜ハンパないっすよ〜と若い画家たちが集まってきて、あるとき、マネ先輩、俺たちもう我慢できないっす、自分たちで展覧会やるっす、となって開催されたのが、第一回印象派展だったから。
そのせいでマネ自身は、自分は絶対印象派じゃない!と主張しているのに、印象派にくくられてしまうことが多いとか。
また、「印象派」というネーミングも、画家たちがそう名乗ったわけではなく、展覧会の作品中の一枚「印象・日の出」のタイトルを元に、周囲が酷評した、いわばディスった言葉だったのが、案外的を得たネーミングとして定着することになる。
印象派だけではなく、フォーヴィズム(野獣派)もディスりの言葉だったけれど、ディスった言葉が、実は、けっこうそのネーミング、あうじゃん、いいじゃん、となって残っていっている例がある、とか。
セザンヌは先駆者として凄い画家(複数の視点で一枚の絵画をつくりあげる、幾何学的に分解した絵画をつくりあげ、それがピカソへつながっていく)だから、好きな画家を問われて「セザンヌ」と答えれば、こいつ、わかってる!と思われます、とか。
いやはや、聴衆として「キャッチの心地よさ」を味わえました。
「マネ先輩」のイメージ、たしかにキャッチできるもん。
キャッチ=わかった!という心地よさだね。
雑誌の編集やテレビの世界を経てきている方だから、大衆にわかりやすい言葉、つかみやすい言葉を紡ぐのに長けているのも当然なのだろうけど、西洋絵画史上に登場する画家たちの、立ち位置、ポジショニングが見えてくるまとめ方、編集の仕方も、面白〜い。
野球やサッカーのプレイヤーはあくまで平面的なポジショニングだけれど、山田五郎さんの講義内容は、時空間的にプレイヤーがポジショニングされていく感じである。
それから、印象派は、インプレッショニズムで、外にあるものを描き、同時代のもうひとつの潮流、象徴主義(モローが代表的で、やがてシュールレアリズム、ポロックへいたる)は、反対にエクスプレッショニズムで、自分の内面にあるもの(妄想含め)を外に描いていこうとするもの、との解説が、刺さる。
私の最近の迷いは、インプレッショニズム偏重から、エクスプレッショニズムを手探っていかないと、というものだったんだわ。
会場で販売している著書を買うとサインもいただけるとのことなので、せっかくだから購入して本を持って列に並ぶ。
これもサイン会の一種かも。
サイン会と言えば、私はそれまで一度もサイン会というものに行ったことがなかったのが、半年前に初めて、林真理子氏のサイン会に行ったことがあった。そこで私は「サインを待って並んでいるあいだに沸き起こってくる心理」に初遭遇する。
それは、いざサインをもらうときに、なにか一言、作者に贈るとしたら、なんて言えば?という心理だ。
いわば、一言プレゼントだ。
林真理子さんに送る一言って???と待ちながら考えた。
圧倒的に列には女性が多い。たぶん・・・作品から受けた感銘の言葉を贈る人、が多いんじゃないかな・・・。
でも。もしかして。
頭がいい女性ほど、能力面のほめ言葉より、容姿面のほめ言葉のほうが、嬉しいんじゃないかな。
よし決定。
私からの一言プレゼントは「先生、お若く見えますね」でした。(本当に若々しいお顔立ちだった)
果たして真に喜んでもらえたかどうかは、わからないけれど。
・・・というわけで、山田五郎さんのサインを待つ列に並ぶあいだも、同じ心理に陥った。
一言プレゼントをするとしたら、なんて言えば???
女の人とは逆に、頭のいい男の人は・・・やっぱり能力的なほめ言葉のほうがうれしいかも。
なので、講義のインプレッションを一言で贈ってみました。
果たして真に喜んでもらえたかどうかは、わからないけれど。
このやりとりをするだけでどきどきしていたので、もらったサインを見もせず帰宅し、本をひらいてみたところ。
か、可愛い。サインの可愛さに感動。(画像、わかる?)
翌日、本を読み始めると。
・・・あれ。内容的に、講義と本の内容はかぶっているはずなのに、講義のほうがキャッチしやすい。
90分で一気、の講義のときは、全貌を見渡す見晴らしの良さとか、時空間を疾走していく感覚があったのに、本だと、小分けに整った感、分断感がある。見晴らしの云々なんて、意識にのぼりさえせず。
たぶん、本という形態をとる以上、「うつわ」が限定されちゃったせいだ。
ま、さまざまな「うつわ」をつくりだす楽しさもあり、それが編集ということなんだろうけど。
そうか。
かつて、今は亡き美術史家・若桑みどり先生の講義が感動的で面白くて、一般人が参加可能なカルチャーセンターの講座や単発の講演会を見つけると、ときおり聴きにいったりしたものだけど、先生が、書物では伝えられない「生の講義の大切さ」をコメントしていたことがあった。ソクラテスも「生の講義」だけをしていた人だったわけで。その他の「大切さの理由」がどうだったかは、憶えていない・・・ということはそれが自分にしっくりこなかったということ。
今、自分でしっくりくる答えを見つけた気がする。
「うつわ」がなくなるんだ、講義だと。
講義のほうが、とてつもなく時空間が拡がる可能性があるんだ。
耳から入った言葉のほうが、文字よりもダイレクトにキャッチできる場合もある。
それは、語り手の言葉の選び方や伝え方の上手さなどの技量が問われるところだけれど。
口から出す言葉はいわば「消えもの」で、だからこそ口に出したとたんに聞き手がキャッチできる即時効果のある言葉が紡げるかどうかという技量も。
いわゆるプレゼンテーションソフトで、わざわざ言葉や文字をスライドや資料に入れこむのは、即時効果のない言葉を印象づけるためだね。山田五郎さんも若桑みどり先生も、絵画や作品そのものをスライドに映すことはあっても、言葉に関してはいっさい、なかった。口から語られる「消えもの」としての言葉だけ。でも、その言葉は「消え」ない。聴衆の中に残る。
さまざまな伝え方、その中でも、「生の講義」の格付けは、最上級ランクなのかも?