六本木ライブラリーとお別れ

決心して、11月末で、六本木ライブラリーを退会した。
とてもつらかった。哀しかった。今でも哀しい。
でも、来年4月から、減給される予定だ。
生活に困るような減給ではないけれど、出費も減らしたほうがいい。
減給分と同額の出費減額に、せまれるだけせまってみよう。
じぶんの身体を損なうような、出費の減らし方は、しないほうがいい。
身体の健康だけは、気合いでアゲられるものではなくて、正直なんだよなあ。
サプリメントとか、月2、3回のピラティスとか、月1回のマッサージとか、ヘアカットのときに一緒にやっている頭皮ケア代とか。
勉強に関することも、減らさないほうがいい。
だって、わたしの未来が、わたしを待ってる。
だから、娯楽を減らすことだな。
突発的なマッサージをやめる、一泊国内旅行をやめる。服代を減らす。
(この半年、sou・souが気に入って、sou・souの服にシフトしてきたのは、sou・souの着心地や考えかただけではなく、価格も、今までより低くできるからだ。)
食費も、惰性の飲食をやめれば、少しは減らせると思うし。
それでも。
減給分相当には、まだ足りない・・・。
六本木ライブラリーの会員費。
月額9720円。
これを削るしかないかな、やっぱり。
六本木ライブラリーで満たされていたのは、精神的な部分が大きかった。
あの空間、あの眺め。
そこにいるあいだ、何よりも満たされていたのは、虚栄心だ。
精神的な娯楽の一種だ。
「好き」と「虚栄」はちがうのよ。
それと、月額固定料金の商品はみなそうだけれど、利用しなければ損、というきもちがつきまとう。
利用=時間だ。
六本木ライブラリーですごしていた時間を、別の時間に使えると考えればいい。
9720円というお金だけではなく、じぶんが自由に使える時間を、増やすことができたと考えればいい。
あーそれにしても、どうしてもわきおこってくる、この哀しいきもち。
「虚栄心を満たすもの」を断ち切るのが、こんなにつらいとは、つらいとは、つらいとは・・・・ぶつぶつ。
いやいや、虚栄を捨てられず、生活を変えることができず、身をほろぼした有名人の数多さを思えば、虚栄心を捨てきれなくて、もがいていても、恥じ入ることはない。
でも、退会してきたーっ!
退会手続きを終えたとき。
六本木ライブラリーを断ち切ることができたんだから、このさき何かを断ち切ることになっても、きっとわたしは乗り越えられる、という自信がわきおこってきた。
さあこい、減給っ。(四ヶ月先だけど)

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何を買えばいいの?

先週、なぜか読みたくなって「インターネット的」(著:糸井重里)をひっぱりだして、再び読む。
いくつか、予言のように感じることが時折書いてあって、後追いで確認していって初めて成立するのが予言なのだなあ、と思ったりする。
「情報や、選択肢が多くなって、人々は、何を買えばいいのか、何が欲しいのかがわからなくなっている」点がそう。
だから、信頼のおける「選択基準」「選択者」を買い手は求め始める。
「いわた書店」の「一万円選書」は、抽選になるほど申し込みが殺到しているというし、雑誌「LDK」の好調もそう。
そうそう、一般的なファッション雑誌は、一年分すでに何月号に何ページこのメーカーのものを掲載ってきまっているんですよ、とイメージコンサルタントさんが教えてくれたっけ。
読者やお客のためではなく、広告主のための雑誌づくりだったのね、と思う。
何を買えばいいの?と悩むお客に、これを買え!と売り手がプレゼン合戦を繰り広げてきたシーンは、遠のきはじめている。
じぶんで選ぼうとするには、選択肢が多すぎて、時間もない。
だから、「キンドル読み放題」と「一万円選書」では、後者にベクトルが向かうのかもしれない。
そこには、売り手のためというより、買い手のため、というこころが、感じられるから。
じぶんのためよりも、あなたのために選ぶ。
これはいいものです、とプレゼンされるお買いものから、これはあなたにいいものです、とプレゼンされるお買いものへ。
あなたにいい、と言える根拠があります、自信があります、実力があります、とプレゼンされるお買いものへ。
予言になるかな。

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長持ちする服

この秋、大判サイズのストールを(なぜか二枚も)もらったので、使ってみようというきもちが強くって、気温がまだ低くないころに、ストールを上着代わりに羽織って使っていた。
じゅうぶん、ジャケットの代用になった。
たぶん・・・ストールは、ジャケットより長持ちする。
なぜなら、かたちがないから。
ジャケットもコートも、かたちがある。デザインというかたちの。
良質な素材のものを手にいれても、デザインがもたなくなる。
じぶんに合わなくなったり、流行に合わなくなったり。
洋服は、それ自体がかたちをもっていて、そのかたちを着ること、かたちを見せることが目的みたいなものだ。
中に納まる人間のからだが細ければ細いほど、どんなかたちの洋服も受け入れることができる・・・
見せたいのは、からだのかたちじゃなくて、服のかたちだから。
からだのかたちより服のかたちを優先させることは、だんだんつらくなってくるんじゃないだろうか。
だって、からだのかたちは変わるけれど、服のかたちはからだに合わせて変わってくれるわけじゃない。
だから、ストール→かたちのない服、という発想との出会いが、とっても嬉しいわたし。
長持ちする服は、かたちがない服じゃないだろうか。
かたちがない服だから、からだのかたちで着る。からだが主体となってくる。
からだのかたちは、個性だから、どんなかたちでもいいと思う。
ストールの次に発見した、かたちのない服が、sou・souの服。
「きさらぎ」の中の「肩上げ」というツイード地を使った羽織的な服があって、羽織ると、着る人のからだのかたちによって、その人それぞれの衣類のかたちが立ち上がってくる。
それなのに、ぬぐと、え?これ四角い布っ?と驚く、かたちのなさなのだ。
面白い。
かたちのないうつわをつくって、中身がかたちをたちあげる。
服もうつわなのだよ。
なにかをユニバーサルでグローバルにするコツは、かたちのないうつわ。
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我我。ガガ。

なかなかなかなか我が捨てられない。
ナカナカナカナカガガステラレナイ。
どうしてわたしをこんなふうに扱うの?!
どうしてわたしを認めないの?!
どうしてわたしに与えないの?!
という我。
生きがいを持てば、欲がなくなる。
だけど欲がなくなっても、我がなくなるとは限らない。
我(ガ)を捨てられるだけでもすごいこと。
我(ガ)を捨てられても誰も褒めてくれない。
我(ガ)を捨てられたらじぶんでじぶんを褒めてあげよう。
レディー・ガガのガガは我我なのだろうか。
我の象徴であるかのような目をむくコスチュームは、じつは周囲を思い切り楽しまるためのエンターティナー魂のすがた。
決して我我ではない。
我我をガガにできれば、楽しさに変わるだろうか?
じぶんでも謎かけのような言葉であるが、なんかそれがいいような気がしてきた。

リアルワーカー

わたしは元気だから!と母に大声で主張した、その三日後に、救急車で運ばれてしまった。
人生初の救急車。
今まで、「救急車で運ばれた結果、なんでもなかった」という話を何度か人から聞いたことがあって、そうか、救急車は、結果が出なくても、呼んでいいものなのだ、とは思っていた。
(結果が出なかったからこそ、後日談がおおっぴらに語れるのかもしれないが)
なので、左胸が突如痛くなりはじめたとき、ここは救急車を呼んじゃおう!と決意して呼んだ。
もしかして左肺に気胸?と思ったからだ。
左側の肺なだけに、心臓の位置が動くのも早いかもしれない→脳に血液が行かなくなる→死ぬ。
という図式が、頭にさああっと浮かんで。
静かに楽しく勉強していただけなのに、なんで突如そうなったのか混乱しながら、周囲の人に助けを求めて、救急車を呼んでもらう。
10分足らずで、救急車が到着。
はじめての救急車だ〜と(胸は痛いけど)感動しながら、でもわたし歩けるので、ふつうに乗り込む。
背もたれ部分を起こした状態の台に横たわって、指に酸素計、腕に血圧計、足首と手首と胸に心電図、と次々とセッテイングされる。救急隊員さんは、聴診器も当てて調べている。
そういえば救急車が来ても、受入先の病院がない、という話も聞くけど・・・と思っていたら、約五分後に、病院が決まりましたよ、と声。
ぜんぜん知らなかった病院名。でもとても気合の入った病院名だった。
出発っ!という感じで、例のサイレンがスタートして、きっといま、車外の車は、ストップしてくれていて、その中を救急車が走り抜けているんだろうな・・・と、今まで外側から見てきた風景を(胸は痛いけど)想像する。
走行中に、身上書のような聞き書きをされる。
名前や住所や生年月日などのあと、病歴や状況の質問。
「何をしていたときにこうなりましたか?」
「講義を受けていました。静かなデスクワークです。」
「その講義に関係したお仕事なんですか?」
「いえ、仕事はぜんぜん別。」
「自己研鑽のためにですか〜」
「はい〜」
などと、会話。
なぜだかずうっと話しかけられているので、返答し続けなくてはならない。
もしかして、話しかけつづけるのが、救急上の正しい処置なのかもしれない。
救急隊員さん同士の、「これは○○だね!」 「うん、□だね!」と、暗号のような単語がまざった会話が聞こえてくる。
え、○○ってナニ? □ってナニ? と(胸は痛いけど)興味をひかれる。
あとで分かったのだが、このときの会話は心電図を見ながらのものだった。
まもなくして、救急隊員さんの言うことには。
「呼吸音が正常なので、肺ではないと思います。
今まで指摘されたことがないかもしれませんが、あなたは不整脈です。」
「そおなんですか。」
それが重大事なのかよくわからないし、わたしは不整脈じゃない!って否定できる確信もないし、他にリアクションしようがない。
でも、ここ二年くらいのあいだ、ときおり起こっていた胸の痛みの回答を、いま救急車内で、もらった気がした。
などのやりとりをしているうちに、病院に到着。走り出して10分経っていないかも。
救急車外に台ごとすべり降りて、「ER」と文字の入ったガラス戸を、通り抜ける。
(半身起こした状態なので、周囲がとてもよく見えるの)
ER内の診察台に(また半身起こした状態で)移ったら、そこでも再び同じような装着がセッティング。
気胸かもしれないので、寝たまま取れるレントゲンセットもやってくる。
血液検査もしてくれる、ってことで、採血もされる。
レントゲンの診断と血液検査の診断結果が出るのを、半身起こした状態の診察台で待っていると、次々と、救急車で搬送されてきた人のストレッチャーが、前を通過していく。
みんな意識を失っていたり、足が折れてるからね!という声が飛び交っていたりして、すごく重症そうな気がする。
わたし程度の症状で運んでもらって、恐縮です〜とひとり心中で思っていると、診断結果が。
レントゲンの結果、気胸は起こしていない。(良かったーっ)
心電図は、今はすっかり正常になっている。(そういえば、胸の痛みも治まっていた)
血液検査も異常なし。
そして、レントゲンでは見えない小さな気胸がないか、MRIをとりましょうか?と聞かれてびっくりする。
すっとMRIが差し出せるの?すっとMRIがとれてしまうの?
それだけ設備と人員が整っていた巨大病院だったのだ。
(とらなくていいです、と断ったけど、今にして思えば、せっかくの機会だったので、とっておいたほうがよかったかも)
こんな病院があるということに・・・首都の底力を感じた。
それにしても、救急隊員さんといい、ERの看護師さん、技師さん、医師さん。
みんな若いので、それもびっくりだった。
二十代から三十代前半じゃないかなあ。そうじゃないと、ERで働く体力が続かないのかもしれないけれど。
若い人々が、秋晴れの日曜日にERで、人生の後半に入った救急患者の処置をしてくれているなんてーっ。
ネットワーカーのほうがコストはいい、利口な働きかただ、という考え方もあるかもしれない。
でもきっと、周囲の人間をストレートに感動させるかどうかという点では、リアルワーカーにはかなわない。

その後のコウリツ

数年前だったか、勤務先で、効率、効率、という単語を連呼する人がいっぱいいた。
コウリツというのは、労少なくして益多し、という状態にすることだから、まず「労少なし」の手法を考えようとする人が多かった。
仕事の「かたち」はみなちがうから、「労少なし」の「かたち」もみなちがう。
わたしの業務範囲であらわれた「労少なし」の「かたち」は、一枚の紙に、いろいろな要素をのっけちゃおう、という発想だった。
紙一枚で、ひとつの業務を動かす、というかたちだったところ、紙一枚で、いつつの業務を動かしちゃおう、という発想だった。
今、数年経って、その紙がどうなっているかというと、内容の精度が、がたおちなのである。
項目まちがいや、古いデータのメンテナンス放置が、どんどん増えつづける。
ひとつの関門でクリアできていたのが、いつつの関門になったのだから、ワナに落ちる確率も増えるわけなのだ。
ひとつの要素を変更しようとすると、いつつ全部変更しなきゃならないから、メンテナンス量も増えるわけなのだ。
いつつの要素がぜんぶ正確にそろった紙にお目にかかる確率は、どんどん低くなっていく。
紙の問題であれば、まだどうにかなるものの、同じ考え方が、コンピュータシステムに使われてしまった場合、もっと大変なことになっている。
ひとつの要素を直すために、いつつの要素も直さなきゃいけない、ひとつの要素で問題が起きると、いつつの要素で問題が起きる、という具合に。
ひとつやるだけで、いつつのことが動くほうがコウリツ的という発想は・・・・素晴らしい結果になってないよ。
目的地に到達するのに、ふたり乗りの車20台で行くのと、40人乗りのバス1台で行くのと、どちらがいい?ということだ。
ふたりそろった車から、次々と目的地に出発できるか、40人揃うまでは、一歩もすすめないか、どちらがいい?
40人揃ってから、車を動かすことこそが、コウリツ的なんだ、ということだろうけど、すこしずつ、早く出発できれば楽しくない?
「ふたり乗り20台」の発想と「40人乗り1台」の発想とどっちが楽しい?
コウリツって、つまりケチってこと?と思う今日このごろ。