カーディガンその後(しつこい)

先週末、母がターコイズブルーのカーディガンを着た。
きっかけは単純。
ともだちとランチに行くことになって、そのときに小奇麗なものを着ることが必要となったから。
きれいな色って褒められちゃった〜肌触りもすごくいい〜と、ご満悦の電話。
あんなに意地をはっていたのに、あっけない。
というより。
今回のようなシチュエーションでは、言葉で説得させようと、理屈で納得させようとするのではなく。
黙って「それを使う機会」を手配すれば、良かったのだなあ、と気づいた。
シチュエーションはぜんぜんちがうけれど、誰かに水着を送って、その水着姿を見たかったら、その水着の効能や効果を力説するのではなく、海やプールへのお出かけをセッティングすればいいわけです。
ずいぶん前のことになるが、まだ日が落ちていない夕刻に通りを歩いていたら、欧米系の、蝶ネクタイのスーツの男の子とドレスアップした女の子のカップルとすれちがった。
大人じゃなくて、もしかして高校生?というくらい若いふたりで、クルマじゃなくて徒歩なのと、手もつながず組まず、ただ横に並んで話しながら歩いているのが、ういういしかった。夕刻の街に、可憐な花が咲いたような美しさだった。
これからふたりでディナーに行くんだなあ、高校生くらいでも、ちゃんとドレスアップして行くんだなあ、と思った。「ドレスアップ慣れ」だなあ。
男の子も女の子も、実価格が高価なわけでも流行の先端をいっている服を着ているわけでもなく、じぶんアピールのために着ているわけでもなく、特別なディナーの機会のために、礼儀として、上品におめかししました、という感じ。
その後、同じ場所を歩いているとき、同じようなふたりに出会えるだろうか、と期待していたが、数年たっても、出会えずにいる。
ドレスのような服は、日本国内にいっぱい売っているけれど、自然なドレスアップをしている日本人には、あまり出会えない。
ドレスアップする機会がないと、ドレスもいらないのだ。または、ドレスアップするカルチャーが生活の中にないと。
本来、ドレスアップするような場面じゃないときに、ドレスのような服を着るのは、イタい行為になるし、じぶんアピール優先行為になる。
でも、「可憐な花のようなふたり」と、しばしば行き会える街が日本国内にあるのなら、とても素敵だと思う・・・。